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生田花世 : ミニ英和和英辞書
生田花世[いくた はなよ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せい, なま]
  1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

生田花世 : ウィキペディア日本語版
生田花世[いくた はなよ]

生田 花世(いくた はなよ、1888年明治21年)10月14日 - 1970年昭和45年)12月8日)は、作家、詩人。82年の生涯のうちの14年間、生田春月と同棲した。
== 生涯 ==
徳島県板野郡泉谷村(現・上板町)で、西崎安太郎の長女に生まれた。父は村長も務めたが、家は維新後衰えていた。
1903年(明治36年)(15歳)、県立徳島高等女学校2年に編入し、『明星』誌、『文章世界』誌などに投稿した。容貌と身長不足とに劣等感を持っていた。服装は生涯飾らなかった。
卒業後、教員免許を取得し県職員の教員となり、1906年半田小学校の、翌1907年松島小学校の教員となり、病弱の詩人横瀬夜雨に文通の指導を受けて詩作し、『女子文壇』誌に投稿し、同誌の主筆、河井酔茗にも師事した。「長曽我部菊子」の筆名を用いた。
1909年父が没し、翌1910年に母の許しを得て上京し県職員を退職、王子の豊島小学校の教員、水野葉舟家の書生、『女子文壇』ほかの記者、寄席の女中などを務め、生活苦から、職場の性的嫌がらせを退けきれないこともあった。貧困の中で投稿を続けた。
1912年(24歳)、『新しい女』として騒がれていた『青鞜』誌に参加して、翌1913年、本名で、『新しい女の解説』『この頃の感想』『自己の或る心に与う』『昔の男に対して』『恋愛及生活難に対して』と、告白的な感想文を載せ続けた。
1914年2月、その『恋愛及生活難に対して』を読んだ生田春月(22歳)から、河井酔茗を経て求婚され、同棲した。間もなく春月は、年上の妻が煙たく、浮気するようになり、疎隔もあったが、おおむね生世は、春月の文筆を内で助けた。
同棲した秋、春月と共に、春月の師生田長江の『反響』誌に加わり、翌1915年1月、『法が女に私財を認めぬ限り、貞操より食物を優先させるのは自然』と書き、青鞜の良家のお嬢さんなどと、雑誌上で『貞操論争』をした〔『貞操論争』
* 1914.09、花世:『食べる事と貞操と』、反響
* 1914.12、安田皐月:『生きることと貞操と』、青鞜
* 1915.01、花世:『青鞜12月号安田皐月樣の非難について』、反響
* 1915.01、花世:『周囲を愛することと童貞の価値と』、反響
* 1915.02、安田皐月:『お目にかかった生田花世さんに就いて』、青鞜
* 1915.02、伊藤野枝:『貞操についての雑感』、青鞜
* 1915.02、花世:『再び童貞の勝ちについて 安田皐月樣へ』、反響
* 1915.03、平塚らいてう:『処女の真価』、新公論
* 1915.04、安田皐月:『貞操の意義と生存の価値について』、新公論
* 1915.04、花世:『懺悔の心より』、青鞜
* 1915.04、大杉栄:『処女と貞操と羞恥心と』、新公論
* 1916.10、平塚らいてう:『差別的性道徳について』、婦人公論〕。
1915年(大正4年)秋、青鞜の最末期に、出産帰郷の伊藤野枝に代わって編集の実務を引き受けた。
1916年(28歳)、平塚らいてう生田長江らと女性文芸誌『ピアトリス』を創刊したが、婦人運動の同人が増え、一年足らずで廃刊した。
花世が内で支えた、春月の詩集『霊魂の秋』(1917)は売れたが、長編小説『相ひ寄る魂』(1921 - 1924)は不評だった。
1928年(昭和3年)(40歳)、長谷川時雨に乞われて『女人芸術』誌の発刊に協力し、広い人脈を役立てた。創刊号に『獅子は抗しがたし』を載せた。
1930年、春月が、女性関係と世帯とに挟まれて自殺した。花世は、春月の末弟博孝と『生田春月全集』全10巻を編集し、1931年から刊行した。1932年、春月の1922年からの詩誌『詩と人生』を継いで第2次『詩と人生』を復刊し、投稿者を指導した。
1933年(45歳)、時雨の『女人芸術』に次ぐ月刊新聞『輝ク』を、手伝った。1938年、時雨の『輝ク部隊』の評議員となり、支那事変下の上海・南京の日本軍を慰問した。1940年、傷病兵の慰問、海軍記念日の講演、『銃後純情』『生かす隣組』の刊行など、戦時向きに行動し、『日本文学報国会』の会員になった。第二次世界大戦の末期は、役所の指導員、調停員などで食いつなぎ、1945年、空襲に焼かれた。
敗戦直後の1945年(昭和20年)(57歳)秋、弟子の家に仮寓して「松花塾」の看板を出し、女性たちと『万葉集』を読んだ。出版も再開した。1954年、杉並区の主婦たちに『源氏物語』の講義を頼まれ、その「源氏の会」が33会場、聴講者計400人以上に広がって、2会場を巡る日もできた。
1966年(78歳)、高血圧を診断され、半年休んでから、『源氏』を再開した。1967年の誕生日の会合に、300人が『生田源氏』の出版と著者の傘寿とを祝った。
その後も「源氏の会」を巡り歩いていたが、1969年暮に再発した。翌年秋、会員たちが野猿峠の光照寺に建てた花世の歌碑の除幕式に、病院から出席した。
:ふるさとの阿波の鳴門に立ち出でてすくひ上げたる白き砂はも
そして暮に没し、歌碑の下に葬られた。東京都八王子市絹ケ丘3-8-1 光照寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「生田花世」の詳細全文を読む




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