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獅子文六 : ミニ英和和英辞書
獅子文六[しし ぶんろく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

獅子 : [しし]
 【名詞】 1. lion 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [ろく]
  1. (num) six 

獅子文六 : ウィキペディア日本語版
獅子文六[しし ぶんろく]

獅子 文六(しし ぶんろく、1893年明治26年)7月1日 - 1969年昭和44年)12月13日)は、日本小説家演出家。本名は、岩田 豊雄(いわた とよお)。演劇の分野では本名で活動した。日本芸術院会員、文化勲章受章。牡丹亭
==来歴・人物==
横浜弁天通の岩田商会に生まれる。祖父は花火職人の平山甚太。実父は元中津藩士の岩田茂穂で、福澤諭吉に学んだのち絹織物商を営んでいたが、文六9才のおりに死去する。幼少の頃は中区月岡町9番地(現西区老松町の迎賓館付近)の官舎に住んでいた。戦争により疎開した先の愛媛県北宇和郡津島町に句碑がある。弟の岩田彦二郎は札幌グランドホテル社長。
日清戦争開戦前年に生まれ、横浜市立老松小学校から慶應義塾幼稚舎に編入学。普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進学するも中退。
フランスに渡って演劇を勉強する。フランス人のマリー・ショウミー〔森茉莉『記憶の絵』(ちくま文庫)に「ショミイ」という女性が出てきて、「小柄で赤褐色の髪に眼鏡、紅く薄い唇。ルイズのような可愛らしさはないが、医者と窃(ひそ)かな関係を持つ看護婦、といったような型で強(したた)かなところがある。会社の帰りの黒のスウツでブラウスだけが薔薇色の新調だが、アメリカ人的なショミイが着るとピンクの感じだ」と書かれている。〕と結婚し、帰国後に長女巴絵を得るが、のち妻は病死。以後、富永シヅ子と再婚し〔http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/04/20090426ddm015070036000c.html〕、娘を育てる経緯がのち私小説『娘と私』となる(なお、戦後にシヅ子も病死し、文六は元男爵吉川重吉の娘・幸子と3度目の結婚。また巴絵は、外交官で吉田伊達家の伊達宗起に嫁いでいる)。
1937年岸田國士久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した劇団雲劇団NLTの面々からも信頼を一手に受けた。
小説家としても活躍、1942年には、真珠湾攻撃の「九軍神」の一人を描いた『海軍』で朝日文化賞受賞〔この小説は映画化もされて大きな反響を呼び、文六は戦中、海軍関係の文章を多数発表。そのため戦後に「戦争協力作家」として「追放」の仮指定されたが1ヶ月半後に解除された。〕。また戦前より獅子文六の筆名〔百獣の王「獅子」に「「四四、十六」のもじりで、「文豪」(文五)を上回る「文六」を目指したという伝説がある。〕で数多くのユーモア小説を書き、『娘と私』『大番』『箱根山』などの連載小説も読み継がれ、『娘と私』はNHK朝の連続テレビ小説(初代作品)になった。
戦前の作『悦ちゃん』は、自分の大好きな女性を父の後妻にしようとする女の子の話で、ケストナーの『ふたりのロッテ』に先駆けて、親を引っ張っていく子供を描く。これは巴絵を持ちながら再婚した過程を虚構化したものである。
てんやわんや』は四国川本三郎は「『海軍』を書いたから、戦後、戦犯になる心配があった。それで奥さんの実家があった四国の津島町に避難した」と書いている(川本三郎・筒井清忠『日本映画 隠れた名作 昭和30年代前後』中公選書2014年)。〕南西部のある村〔文六が戦後、住宅不足のため疎開した、2人目の妻の生地である愛媛県岩松町(現在は宇和島市に所属)がモデル。〕の日本からの独立騒動を描いて、井上ひさし『吉里吉里人』の先駆をなす。『但馬太郎治伝』は薩摩治郎八をモデルにし、治郎八を有名にした。またバナナ業界を描いた『バナナ』、東海道線の特急電車を描いた『七時間半』、箱根周辺の開発競争を描いた『箱根山』などの「業界物小説」も得意とするなど、八面六臂の才筆ぶりを見せている。
また、多くの作品がラジオドラマ化、テレビドラマ化、映画化などがされている。1951年には『自由学校』が松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)で競作映画化、1955年には『青春怪談』が日活(市川崑監督)と新東宝(阿部豊監督)で競作映画化されるほど、人気を博した。
1963年、日本芸術院賞受賞、1964年芸術院会員、1969年文化勲章受章、同時に文化功労者谷中霊園に眠る。
横浜の中華料理、パリのフランス料理を含め、様々な物を食してきた食通としても知られており、『飲み食ひの話』、『飲み・食い・書く』などの随筆も書き記している。
近年は著書のほとんどが絶版となってしまい、生前の影響力・人気・知名度からは意外なほど「忘れられた作家」となっていたが、中野翠小林信彦らが文六の再評価を促す文章を発表。また、2009年には初の伝記『獅子文六の二つの昭和』が刊行された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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