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片山良庵 : ミニ英和和英辞書
片山良庵[かたやま りょうあん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [りょう]
 【名詞】 1. good 
: [いおり]
 【名詞】 1. hermitage 2. retreat 

片山良庵 : ウィキペディア日本語版
片山良庵[かたやま りょうあん]

片山 良庵(かたやま りょうあん、1601年(慶長6年) - 1668年(寛文8年))は江戸時代前期の軍学者、医師。 越前福井藩士、のち、越前松岡藩士。諱は三盛。一説には直竒ともいう〔『富山藩武術ニ関スル記録』 56/61コマ左頁,58/61コマ右頁、渋谷孝本『諸芸雑志』 巻九 71/128コマ右頁,74/128コマ右頁 - いずれの文献も、富山県立図書館サイト内の古絵図・貴重書ギャラリー > 貴重書・古絵図紹介〕。秋扇と号した。
== 生涯 ==
慶長6年(1601年)、京都に生まれる〔『日本人名大辞典』500頁、『若越墓碑めぐり』4頁〕。幼少より儒学者藤原惺窩の下で学ぶ〔『越前人物志 上』466頁 、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁〕。林羅山(道春)は同門でこのころの友人という〔『越前人物志 上』466頁、『続片聾記 中』579頁〕。
12、3歳にして早くも経史子集〔漢籍の4分類。経部(経書)、史部(史書)、子部(諸子)、集部(詩文集)を指す。〕に通じていたと言われる〔。しかし、100余日にわたる病〔この病について、『越前人物志 上』466頁は「」とし、『続片聾記 中』579頁は「疱」とする。〕により学問を中断〔『続片聾記 中』579頁、『越前人物志 上』466頁、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁〕。回復した後、同学の者に遅れをとったことを嘆き、これを機に兵法の修学に転じた〔。兵法では、甲州流軍学に最も通じ、8家から奥義を得るほどで名声が高く、多くの入門者がいたという〔。甲州流ないし北条流の軍学を修める前には、鵜飼某、宇佐宮より出た春慶という者の軍学や、小笠原流、宇野流の軍学も修めたとされる〔『富山藩武術ニ関スル記録』56/61コマ左頁、57/61コマ右頁〕。また、謙信流(越後流)の軍書を授けられたこともあるという〔『富山藩武術ニ関スル記録』57/61コマ左頁〕。はじめ姓は赤堀といい、片山を名乗ったのは軍学に達してからだという〔
『一騎武者受用巻講義』 3/52コマ右頁 - 福井市立図書館 越国文庫コレクション(同書が、原著者の北条氏長より、改訂した良庵やその門人を経て伝来した経緯を説明する中で、良庵の略歴に触れる)〕〔一方で、『越前人物志 上』466頁には「父を片山正盛と云」と、父の代から片山姓であったと読める記載がある。〕。
元和2年(1616年)、信濃松代藩主・松平忠昌に禄300石をもって軍師として招かれ、その家臣となる〔『越前人物志 上』466-467頁、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁、『一騎武者受用巻講義』3/52コマ右頁〕。また、医者としても仕えた〔『国書解題』710頁 、『富山藩武術ニ関スル記録』56/61コマ左頁〕。寛永元年(1624年)、藩主忠昌の転封に伴い、越前福井に移る〔『越前人物志 上』467頁、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁〕〔松平忠昌は、信州松代藩→越後高田藩→福井藩の順で移封されている。〕。忠昌が江戸に入るとこれに従った〔『越前人物志 上』467頁〕。
江戸にいた寛永15年(1638年)、隅田川河畔にあって〔なお、越前福井藩下屋敷は、現在の墨田区役所がある隅田川のほとりにあり、下屋敷ながら藩士が居住する長屋があったという。〕『古戦場夜話』を著わす〔『国書解題』710頁〕。江戸においても良庵の下で学ぶ者は多く、知名の士との交流もあったという〔。特に儒学者の林道春、軍学者の北条氏長との親交が厚かった〔。将軍の侍講であった道春及び旗本であった氏長の推挙によって、幕府より登用の話があったものの、故あって固辞したという〔。そのため、忠昌より剃髪および医服の着用を命じられた〔〔『高名穿鑿帳』 3/21コマ右頁に、「寛永十有七之年春」付けで「沙弥 片山秋扇書」とあるため、剃髪は寛政17年春以前。〕。このとき名を良庵と改め、「宿志達せんと欲するも強て行われず、秋来て扇の筐底に蔵するに等し」として、秋扇と号した〔。
正保2年(1645年)、藩主忠昌が没すると、その次男であるが正室の子であった松平光通が福井藩を相続し、庶兄の松平昌勝が5万石の松岡藩に分封されることとなった〔『越前人物志 上』467頁、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁、『藩史大事典 第3巻』258頁〕。その際、福井藩のうちから磯野岩見(1,700石)、平岡右近(1,450石)以下45名が昌勝付きとなり、良庵も主命により昌勝付きの松岡藩士となった〔『越前人物志 上』467頁、『一騎武者受用巻講義』3/52コマ右頁、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁、『藩史大事典 第3巻』258頁、『続片聾記 下』19-20頁〕。
松岡藩分封の際、幕府より新規の築城は許されず、館(陣屋)が造営されることとなった〔『藩史大事典 第3巻』258頁、『角川日本地名大辞典 18 福井県』1056頁、『福井県の地名』221頁〕。慶安元年(1648年)、館は勝山街道沿いの吉田郡芝原庄に置くことと定められ、同地は松岡と改称された〔。館の構築には、陣構えや築城法に通じる良庵が総督となり、これに当たった〔『越前人物志 上』467頁、『三百藩家臣人名辞典 第3巻』305頁〕。 館は、九頭竜川南岸の河岸段丘の上にあり、館を囲んで武家屋敷を配置。東側を表として東西南の3方に土居水堀を巡らし、東側の武家地の端に接して鉤状に折れ曲った勝山街道を通す構造であった〔。屋敷割りは慶安2年(1649年)9月に、承応2年(1653年)からは館の普請が行われた〔『吉田郡誌』466頁 『続片聾記7巻』8/446コマ - 福井市立郷土歴史博物館デジタルアーカイブ〕。これが松岡館である。藩主昌勝は、承応3年(1654年)6月に入部〔『国史大辞典 第13巻』99頁、『越前国名蹟考 巻4-7』 683頁〕。街道に沿って町屋が形成され、町は陣屋町として発展した〔『藩史大事典 第3巻』258頁、『角川日本地名大辞典 18 福井県』1056頁〕。
良庵は、松岡藩に移った後も、本藩である福井藩の藩主・松平光通や、その弟で越前吉江藩主の松平昌親〔当時の名乗りは昌明。〕に召され、兵法を講じたという〔。
寛文8年(1668年)、68歳にて没した〔。法号は清澄院良庵秋月居士〔。福井の本妙寺に葬られたが、後年、墓は泰遠寺に移った〔『若越墓碑めぐり』4頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「片山良庵」の詳細全文を読む




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