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湛然居士 : ミニ英和和英辞書
湛然居士[し]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

居士 : [こじ]
 (n) a lay Buddhist

湛然居士 ( リダイレクト:耶律楚材 ) : ウィキペディア日本語版
耶律楚材[し]

耶律 楚材杉山正明は「楚材のはじめの名は楚才で、『春秋左氏伝』にある熟語の「楚材晋用」(の人材をで用いる意味)に基づいて、改名した」と述べている。〕(やりつ そざい、1190年7月24日 - 1244年6月20日〔宋子貞:《中書令耶律公神道碑》,節選自蘇天爵編集的《元文類》卷五七〕)は、初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツサハリ(「髭の長い人」の意)。
== 略歴 ==

=== 生涯 ===
楚材の家は契丹)の太祖耶律阿保機の長男である東丹国の懐王(義宗・天譲帝耶律突欲(とつよく、または図欲=とよく、漢姓名は劉倍)の九世の末裔とする遼の王族出身であり、出自は契丹人であるが、代々中国の文化に親しんで漢化した家系である。遼の滅亡後はに官僚として仕え、祖父は耶律聿魯で、父の耶律履は金制においては宰相級の重職である尚書右丞に昇った。楚材は父が高齢になり、三男(末子)として生まれた子で、3歳の時に父が61歳で死んだため漢人である生母の楊氏に厳しく育てられた。また、異母兄の耶律弁才耶律善才は彼よりも20歳も年が離れていたが、彼は生母と共に兄たちから養われたという。
成人すると宰相の子であるために科挙を免ぜられ、代替の試験を首席で通過して尚書省の下級官僚に任官した。モンゴルが金に侵攻したときは首都の中都(現在の北京)で左右司員外郎を務めていたが、1214年に中都が陥落したとき捕虜となった。楚材は家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、中国の天文と卜占に通じていたためチンギス・カンの目に止まり、召し出されて中国語担当の書記官(ビチクチ)となり、ハーンの側近くに仕えることになった。1219年からの中央アジア遠征でもチンギスの本隊に随行してもっぱらカン側近の占星術師として働き、そのときの体験と詩作を『西遊録』に残した。
チンギスの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、チンギスの遺志を尊重してオゴデイを立てることを説き、オゴデイの即位に大きく貢献したとされる。ただし、モンゴル貴族ではない楚材がクリルタイに出席して発言権をもったとするには無理があり、この話は中国で書かれた史料にしか伝わっていないことから、この逸話は疑わしいという説もある。
オゴデイが即位すると、新ハーンにも書記として仕え、中国語で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、北中国の金の旧領の統治に携わった。楚材は、あるモンゴル軍人が、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる集団に分けて3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、単位に課税する中国式税制を導入させた。新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。
1234年にモンゴルが金を最終的に滅ぼし北中国を併合した後には、中国式に全土をハーンの直轄領にするために、モンゴル貴族に征服した領土を分与することに反対したが、これは黙殺された。また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀と行わせ、実務官僚層の供給源とした。オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。
しかしオゴデイの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭して中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立した。結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていった。
1241年にオゴデイが没した後はほとんど発言力をもたず、その3年後失意のうちに没した。楚材は清貧の美徳を守ったので、その遺産は琴と書物が残るばかりであったという。詩作をよくし、詩集に『湛然居士集』がある。
梁氏が産んだ長男の耶律鉉が30前後で早世したために、鄭氏(蘇氏の説あり)が産んだ末子の耶律鋳が跡を継いだ。後に鋳は嫡子の希亮と共にクビライに仕えて中書左丞相に上ったため楚材は再評価され、太師上柱国を贈られ、広寧王に追封されて文正された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「耶律楚材」の詳細全文を読む




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