翻訳と辞書
Words near each other
・ 浜口喜博
・ 浜口喜博 (バイクレーサー)
・ 浜口国雄
・ 浜口奈津子
・ 浜口宏夫
・ 浜口富士雄
・ 浜口小学校
・ 浜口尚
・ 浜口巌根
・ 浜口平吾
浜口庫之助
・ 浜口弘
・ 浜口恵俊
・ 浜口惠俊
・ 浜口成則
・ 浜口政信
・ 浜口文幸
・ 浜口春好
・ 浜口村
・ 浜口桂一郎


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

浜口庫之助 : ミニ英和和英辞書
浜口庫之助[はまぐち くらのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はま]
 【名詞】 1. beach 2. seashore 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

浜口庫之助 : ウィキペディア日本語版
浜口庫之助[はまぐち くらのすけ]

浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のソングライター兵庫県神戸市出身。 愛称はハマクラ
== 経歴 ==
1917年兵庫県神戸市に生まれる。浜口の父は建設会社を経営する実業家で、家庭環境は非常に裕福だった。家族の多くが音楽好きで兄弟はチェロギターウクレレなどを嗜んだ。浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、5歳の時には楽譜を読めるようになった〔浜口1991、10-11頁。〕。
小学2年の時に一家は東京へ引っ越した。府立四中(現・東京都立戸山高等学校)に進学した浜口は旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)入学を目指し勉学に励んだが受験に失敗し、1935年早稲田大学高等予科(現・早稲田大学高等学院)に入学するが翌年に中退。
1936年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。この夢は翌1937年になって実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した〔浜口1991、12-14頁。〕。
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学商学部)に入学した。当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、大学内で慶應義塾大学立教大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した〔浜口1991、15-16頁。〕。
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。
太平洋戦争終結後捕虜となり、1946年5月に引き揚げ浜口1991、16-17頁。〕。東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行った。
その後灰田勝彦の誘いを受けて灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなったり、自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して音楽活動を続ける〔浜口1991、16-23頁。〕。
1950年結婚、一男一女をもうける。長男はスタジオミュージシャンで、ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也
「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としては1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。(第4回第5回第6回を参照)
1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、バンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家作曲家へ転向。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった〔浜口1991、27-35頁。〕。
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1963年、妻、邦子と死別。
1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズビリーバンバン西郷輝彦にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞第8回)・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女を儲けた。
晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒット、翌1988年には日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞。また島倉は1987年末の第38回NHK紅白歌合戦を「卒業宣言」して出場辞退したが、当時病気療養中の浜口に対して、島倉は「私が歌う姿を見て元気になって欲しい」と思い直し、1988年暮れの第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の紅白復帰を決意し、「人生いろいろ」を歌唱した。
大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。
1990年12月2日喉頭ガンの為、癌研究会附属病院にて逝去。 。クリスチャンであったため、葬儀は東京都千代田区飯田橋富士見町教会で営まれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浜口庫之助」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.