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浅野忠信 : ミニ英和和英辞書
浅野忠信[あさの ただのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
忠信 : [ちゅうしん]
 【名詞】 1. faithfulness 2. devotion
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

浅野忠信 : ウィキペディア日本語版
浅野忠信[あさの ただのぶ]

浅野 忠信(あさの ただのぶ、1973年11月27日 - )は、日本俳優。本名:佐藤 忠信(さとう ただのぶ)。
神奈川県横浜市南区出身。父・佐藤幸久が代表を務めるアノレ1996年設立)所属。神奈川県立磯子高等学校出身。
身長179cm、体重58kg 。英語圏ではTad(タッド)のニックネームで呼ばれている〔タッド浅野忠信、ハリウッド初進出作『マイティ・ソー』の手応えは? Infoseek woman 2011年6月16日閲覧〕。
== 来歴 ==

=== 生い立ち ===

母方の祖父ウィラード・オバリング(Willard N. Overing)はアメリカ合衆国ミネソタ州ウィノナ生まれ〔ドキュメンタリー番組『ファミリーヒストリーNHK、「浅野忠信」 2011年8月3日放送回。〕の北欧アメリカ人〔『ファミリーヒストリー』(2011年8月3日)より。〕。
忠信の母はナバホ系のアメリカ・インディアンで元農民〔の血統と思い込んでおり、忠信自身もそれを30年以上信じていた〔『ホンネ日和』(CBC制作・TBS系列)浅野忠信x板尾創路 2012年1月8日放送回。〕が、番組製作時の調査でそれが間違いと判明。ウィラードの弟ゴードンは「父ジェイコブはオランダ人、母エラベルはノルウェー人で、共に北欧の家系である」と証言した。ただ、ウィラードの出身地(ゴードンの現住地)ウィノナはもともとアメリカ・インディアンであるスー族の一支族ダコタが居住する地域であった。また、オバリング家は、未開拓地を無償で払い下げる法律を作ってヨーロッパからの移民を大量に受け入れていた19世紀後半のアメリカに渡ってきた西部開拓移民であったことも、証言と取材班の調査によって明らかとなった。一家は小麦大豆を作って生計を立てていたという。
第二次世界大戦時(1946年、18歳時)以降はアメリカ陸軍の料理兵であった〔。戦後、日本に駐留し〔1949年(昭和24年)3月、横浜市の進駐軍司令部にて着任。〕、配属された横浜市にて浅野の祖母である浅野イチ子と出会う〔。
元・芸者であったイチ子は、ウィラードより15歳年上の38歳で、戦後、満州国大連市から帰国したが、故郷・広島原爆で壊滅したため、仕事を求めて上京していたという〔。
やがてふたりは結婚し、1950年昭和25年)9月23日に長女・順子(忠信の母)が生まれた〔。
その後、ウィラードはアメリカ軍の引き揚げに伴って帰国する際、イチ子と順子の渡米を強く望んだが、イチ子はこれを拒んで日本にとどまった〔〔迷った末、渡米直前になって拒否したとのことであるが、イチ子が渡米しなかった理由は明らかでない。会話もままならない異文化社会で子育てすることへの不安のほか、まだ若い夫との年齢差から来る不安を当時44歳になっていたイチ子は感じていたのではないかと、『ファミリーヒストリー』は推測した。ここで渡米していれば、忠信は生まれない。〕。
順子は18歳で結婚し、1971年(昭和46年)11月14日に長男の久順(ひさとし)(現・KUJUN。俳優、演奏者)が、1973年(昭和48年)11月27日に二男の忠信(以下、浅野とも表記が誕生した〔参考〕。
忠信兄弟は、公園でビキニ姿で日光浴するような奔放さを持つ母と、整理整頓が得意で几帳面な父のもと、横浜市で育った。両親は20代前半で子を得てまだ若く奔放であった。忠信自身は父親は「家でいつも調子が悪いと言っては家で寝てばかりいる」、母親は「学校を休ませてドライブに誘う」、夜に忠信兄弟を家に残して両親がディスコに行ってしまうこともたびたびで、兄弟は近所の家に「お母さんがいない」と泣きついたこともあったという〔。曰く、「ヒッピーの子供で生まれた」としている〔。一方で両親は「親が白と言ったら白なんだ」という厳しさも持ち合わせていた〔。大黒柱である父親が最初に食事をし、子供は残ったものを食べるというように、甘やかされることなく浅野は育てられた〔。母の言によれば、忠信はいつもニコニコと笑いながら歩いている子供だったと言う〔。
クォーターのために幼い頃は髪の色が金髪に近く、何もしていなくても目立っていて声をかけられることも多かった。子ども心に、日本人だが日本人になりきれていない違和感も感じていたという〔。しかし、「子供の頃から目立ちたがり屋で、いつもテレビに出たいと思っていた」といい。やがて自分から無理に目立つことをしなくてもいいと思うようになった。そう思うきっかけになったのは、母が忠信に見せたウッドストック・フェスティバルの映像であった。ステージ上のミュージシャンが観客を熱狂させているのを見て、人前で大勢の人を喜ばせるようなことをしたいと考えるようになり、それが今日の自身の穏やかな印象に影響していると浅野は考えている。〔映画『鈍獣』の主演・浅野忠信がテレビドラマに出演しない理由とは?日経トレンディネット 参考。〕
小学生の頃から実家の隣の空手道場に兄と通った〔K-PERSON 浅野忠信(2007年9月9日紙面掲載) 参考。〕。また、ブレイクダンススケートボードも始めた〔。中学からは音楽を始め、パンクロックバンドを組み元町本牧のライブハウスを渡り歩いた〔。この頃ファンであったのはおニャン子クラブ吉沢秋絵で、フジテレビ前で出待ちをしたこともあったという〔『とんねるずのみなさんのおかげでした』 2009年6月25日放送回より。〕。ビートたけしのファンでもあり、父親が石倉三郎マネージャーをしていたことから『風雲!たけし城』の見学にも来ていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浅野忠信」の詳細全文を読む




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