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河内家菊水丸 : ミニ英和和英辞書
河内家菊水丸[かわちや きくすいまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
河内 : [はのい, かわち]
 【名詞】 1. Hanoi 
: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
: [きく]
 【名詞】 1. chrysanthemum 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

河内家菊水丸 : ウィキペディア日本語版
河内家菊水丸[かわちや きくすいまる]

河内家 菊水丸(かわちや きくすいまる、男性、1963年2月14日 - )は、日本タレント、伝統河内音頭継承者、音頭取り。元・新聞詠み(しんもんよみ)河内音頭家元。菊水丸を名乗る前は、本名の岸本 起由(きしもと きよし)名義で活動していた。
所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシー此花学院高等学校(現在の大阪偕星学園高等学校)卒業。師匠は実父でもある河内音頭の音頭取りの河内家菊水、母はピアノ講師。
大阪府八尾市出身。現在は京都府相楽郡南山城村に在住。「音頭取り」としての活動と並行しながら、一般社団法人・日本ストリートダンス認定協議会の特別講師〔2013年6月27日付の同協議会プレスリリース)を参照〕や、同府池田市の「池田音頭大使」などを務める〔河内家菊水丸さん 池田音頭大使に就任 〕。かつては、大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科の客員教授でもあった。
== 経歴 ==
1963年2月14日に大阪警察病院で出生。1972年3月に9歳で家元を継承し東大阪市弥刀東で初櫓に上がる、小学生の頃から盆踊りの櫓で太鼓等を演奏、浪曲初代京山幸枝若の伴奏や生駒一天童よしみのバックで太鼓を叩いていたこともある。高校時代はバンド活動もしていた。
1980年なんば花月が初舞台であるが、デビュー前は自身のアイドルで節に心酔していた松竹芸能の劇場で活躍していた鉄砲博三郎門下の音頭取りの生駒の元に足を運び、河内音頭の口説き(舞台芸としての音頭)のいろはを学ぶ。新世界新花月でも生駒のギター伴奏を務めていた。尚、菊水丸のヘアースタイルは生駒のヘアースタイルを尊敬を込めて意識し真似たものである。
1984年、新しい流派『新聞詠み』を興し、以来大阪を拠点に歌う。
エレキギターシンセサイザーなどを用いて、「グリコ・森永大事件」や「阪神タイガース日本一音頭」(以上は『菊水丸の河内音頭秘蔵コレクション』収録)、「大リクルート事件江副浩正半生記」や「豊田商事最後の日・永野一男一代記」、「天才漫才師・横山やすし物語」、「浪花の喜劇王・藤山寛美青春編」、「美空ひばり物語」(以上は『河内家菊水丸大全集』収録)、「アントニオ猪木一代記」(『新聞詠み河内音頭 バッド・ニュース アントニオ猪木一代記』収録)など、世相・事件を題材にした曲を発表。
グリコ森永事件が起こった時には、犯人が書いた脅迫状にメロディーをつけ、アルバムに収録したこともある。その曲はワイドショーなどで多用されたため、歌詞の印税だけですでに数百万円に及んでいるのだが、「作詞者はグリコ森永事件の犯人」であるとして菊水丸は受け取っておらず、現在JASRACが全額を保管している。またこの曲を作ったことにより警察からグリコ森永事件の犯人と疑われ、取り調べを受けたことがある。
1990年代前半は海外でのライブも多く、イラク北朝鮮ソ連エジプトギリシャイタリアチュニジアフランスキューバガダルカナル北方諸島などで行っている。イギリスのテレビ局では特集が組まれ、それを見たBBCからも出演依頼が来た。音楽番組「イースタン・ヒット」に出演。
1991年リクルートアルバイト情報誌「フロム・エー」のテレビCMソング「カーキン音頭」が8万枚以上〔「91ヒットCM――リクルートフロムエーの『フロム・エー』」『日経流通新聞』1991年12月26日付、1面。〕を売り上げる大ヒット、全国区進出を果たす。リクルート事件をモチーフにした曲を発表したこともあるにも関わらず、同社刊行のアルバイト求人誌「フロム・エー」の仕事を受けるという一見信じられないような珍事であり、当然リクルート側が「えっ? 菊水丸…、なんかしませんでしたか?」と問い合わせたが、吉本側は「いいえ、全然関係ありません」と言い張ったそうである。またCMが関東ローカルだったこともあり、地元大阪では「なんで菊水丸が急に売れ始めたのか?」と疑問に思った人も多かったという。同年ソ連崩壊3日前に赤の広場でゲリラライブ〔「ゲリラライブ」という言葉の語源は菊水丸が最初に用いたとされる。(本人が度々TVで発言)〕敢行。
音楽・お笑い・政治を融合した新聞詠み河内音頭という横断的なジャンルであったため、全国区進出後は出演番組も「ミュージックステーション」「NHK紅白歌合戦」などの歌番組、「さんまのまんま」「笑っていいとも」「徹子の部屋」「ライオンのごきげんよう」などのトーク・バラエティ、「朝まで生テレビ」「おはよう!ナイスデイ」などの政治・ニュース番組などと多岐にわたった。
1998年東大阪市の架空住民登録容疑事件に絡み逮捕された市長の進退をめぐり、市役所前で「東大阪市長 やめさらせ!音頭」を披露した。
2002年日韓ワールドカップの日本対チュニジア戦で国歌斉唱の依頼があったが、辞退したため各紙で物議を醸した。辞退理由として「僭越である」と述べた。結局この試合の君が代は演奏のみとなった。
2005年1月24日東京都渋谷区NHK放送センター前の路上で、漫才師西川のりおとともに、海老沢勝二NHK会長(当時)の解任を求めるゲリラライブを行い、海老沢を痛烈に批判する「怒りの河内音頭」を披露した。
2006年8月19日大阪府貝塚市での盆踊りで、「通算8,888櫓」を達成する。
2005年→2006年、2006年→2007年、2007年→2008年兵庫県洲本市商店街「コモード56」で年越しを迎えた→「ニューイヤーフェスティバル」。
2007年の「YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜」では、自身の少年期を描いた「田中徳三監督 少年河内音頭取り物語」で、クレジット上ながら映画監督デビューを果たした。実際には、田中徳三監督の作品(「座頭市」「悪名」など)が好きだったことから、タイトルにある通り大部分の撮影を田中徳三に依頼。また、キャンディーズ時代からのファンだった縁で、田中好子の出演を実現させた。ちなみに、田中徳三は、同作品公開直後の同年12月27日に逝去。同作品が事実上の遺作になった。
2007年11月1日、パーソナリティーを務める、MBSラジオ「さてはトコトン菊水丸」により自身のMBSラジオでのパーソナリティ出演が「冬眠返上菊水丸」から数えて1,800回を迎えた。
2007年11月30日、自身初となる中国・上海講演に菊水丸一座で出発。メインパーソナリティを務める、MBSラジオ「さてはトコトン菊水丸」は前日に録音したものを放送。連続出演記録は出陣式を行った関西国際空港より電話出演でつないだ。
2008年4月15日、大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科客員教授(日本文化史)に就任。
2009年2月3日に、「さてはトコトン菊水丸」を同年3月27日で終了(自主降板)させるとともに、盆踊りシーズンが終わる同年9月末で「新聞詠み河内音頭家元」を返上することを発表。今後は、「伝統河内音頭継承者」という肩書きで、正調河内音頭の音頭とりとして伝統の保存と継承に専念することを明かした。なお、同番組が終了してからは、公式ブログを開設。古典、古い節回しの発掘、他流派の師匠連への稽古通いなどをしながら、ブログで近況を報告している。
2009年8月23日衆議院議員総選挙をネタにした新聞詠みを発表。この時点では、「新聞詠みとしての最後の作品」としていた。〔「菊水丸さん最後の新聞詠み 衆院選の予想音頭で幕 」『47NEWS』2009年8月23日付。〕しかし、東日本大震災発生後の2011年6月に、「新聞詠みネタ」の封印を自ら解くことを表明。同月22日に兵庫県姫路市で開かれた「姫路ゆかたまつり」へ出演した際に、同震災からの復興を祈願する目的で、「姫路から、がんばろう日本音頭」を披露した〔「菊水丸さん被災地へエール 姫路で「がんばろう日本音頭」 」『讀賣新聞』兵庫県版2011年6月23日付。〕。同曲については、CDも制作。売上金の一部を、被災地域への義援金に充てることを表明していた。
2012年10月に受診の人間ドックで、甲状腺乳頭癌発症の疑いが浮上。その後の精密検査で、甲状腺で発症した癌細胞が気管支リンパにも転移していることが判明したため、同年12月25日リンパ節郭清などによって以上の癌細胞を摘出する手術を受けた。18日間入院。一時は音頭取りの生命線である発声が危ぶまれるほど癌細胞の湿潤が見られたことから、退院後は体調を考慮しながら、2013年春から音頭取りとしての活動を再開。同年3月2日KBS京都テレビで放送の『とっぴもナイト』(手術直前まで12年間にわたってレギュラーを務めてきたトーク番組)で、本格的に復帰した。奇しくも手術を受けた病院は、へその緒が首に3周半巻きついた状態で生まれた大阪警察病院であった〔河内家菊水丸が甲状腺乳頭がん 摘出手術に成功 (「ORICON STYLE2013年1月6日付記事)〕。
2015年には、(吉本興業へ所属してからの)芸能生活35年目記念のシングル曲「本日は晴天なり」を6月24日よしもとアール・アンド・シーから発売。同月28日には、盆踊りの出陣式・同曲のお披露目を兼ねて、芸能生活35周年記念パーティーを開催した〔河内家菊水丸 芸能生活35周年シングルをリリース! 大盆踊りツアー2015出陣式で初披露! (吉本興業公式サイト「よしもとニュースセンター」2015年6月29日付記事)〕。また、母校の大阪偕星高校硬式野球部が全国高等学校野球選手権大会に大阪府代表として初出場を決めたことを受けて、7月31日には「大阪偕星学園応援音頭」を即興で制作している〔大阪偕星学園OB河内家菊水丸 甲子園祝う即興音頭 (『日刊スポーツ2015年7月31日付記事)。ただし、全国大会の開催期間が盆踊りシーズンと重なることなどから、甲子園球場での応援は実現しなかった。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「河内家菊水丸」の詳細全文を読む




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