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橘丸事件 : ミニ英和和英辞書
橘丸事件[たちばなまるじけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たちばな]
 【名詞】 1. kind of citrus fruit 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 
丸事 : [まるごと]
  1. (adv) in its entirety 2. whole 3. wholly
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

橘丸事件 : ウィキペディア日本語版
橘丸事件[たちばなまるじけん]

橘丸事件(たちばなまるじけん)は、1945年(昭和20年)に日本陸軍が国際法に違反して病院船橘丸」(東海汽船、1,772トン)で部隊武器を輸送した事件である。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出すこととなった。
ここでは本編に先立って事件に至るまでの背景などを「前史」として解説する。「橘丸」の船歴については当該項を参照とのこと。
== 前史 ==

1943年(昭和18年)12月現在、日本軍が運用し連合国側に通告済みの病院船は、日本陸軍が「橘丸」を含めて17隻、日本海軍が4隻であった〔#病院船pp.4-5〕。
なお、日本陸軍ではこの17隻の通告済み病院船の他に、未通告のまま病院船と称する船舶を何隻か運航させていた。そのうちの1隻、「はるぴん丸」(日本海汽船、5,167トン)は1942年(昭和17年)1月10日にアメリカ潜水艦「スティングレイ」 (''USS Stingray, SS-186'') に撃沈される。この事は昭和17年1月14日の大本営発表で公表され〔#「ハルピン」丸撃沈事件p.4〕、当時の新聞は「国際條約を蹂躙」「天人倶に許すべからざる非人道的行為」と書いて〔、いわゆる「アメリカ軍の非人道性」を大いに批判した。しかし、「はるぴん丸」撃沈の実態は、「「ハルピン」丸ハ船体黒塗ノママ赤十字標識ヲ附シアリ 敵国ニ対シ病院船トシテ通告モナシアラザリシモノニシテ国際法上ノ病院船トシテノ資格ナカリシモノナリ」〔#朝日丸(1)pp.12-13〕〔アメリカ側も、「はるぴん丸」が規定の塗装をしていなかったことを示す "painted war color"(戦時塗装)という記述を残している(#SS-186, USS STINGRAYp.21)。〕と、日本海軍が記すように、登録はおろか”(目立つ赤十字のマークがあったとしても)病院船としての正規な塗装”を行っていなかった。
これ以降も連合国軍による通告済みの日本の病院船への攻撃は収まらず、そのたびに「通告済み病院船が攻撃される→大本営発表で公表→米英非難報道→米英が釈明、もしくは事実上の謝罪」のパターンが繰り返された〔#「アラビア」丸〕。ついには、昭和18年11月27日に「ぶゑのすあいれす丸」(大阪商船、9,625トン)がカビエン近海でアメリカ軍のB-24の爆撃を受けて沈没し、その写真が公にされるという事態が起こる〔#野間pp.147-151〕〔#写真週報308p.2〕。なお本船は、上記の野間の記述とは違い1942年(昭和17年)11月23日に外務省経由で病院船として連合国への通告が行われ〔#第四次帝国軍病院船名通告ノ件 pp.3-8〕、12月に入ってからスイススウェーデンおよびスペイン経由で連合国側に通告され受理されていた〔#第四次帝国軍病院船名通告ノ件 pp.12-27〕〔#不法攻撃事件一般 p.3〕〔この件に関して野間は「日本の陸軍病院船は国際的に未認知であったようである」(#野間 (2004) p.148)としているが、通告自体は受理されており(#不法攻撃事件一般 p.3)、野間が言うところの「未認知」だったとは言えない。〕。さらにアメリカ軍機は救命ボートで漂流していた生存者を機銃掃射で殺傷した。
冒頭に掲げた野間恒の記述は、日本陸軍の病院船に関するある一面を表現している。連合国側への通告の点では「はるぴん丸」の例はさて置いても間違っているものの、17隻の通告済みの陸軍病院船の中で終戦時に残存したのは、この項の主役である「橘丸」だけであり〔この17隻のほか、「有馬山丸」(三井船舶、8,696トン)と「和浦丸」(三菱汽船、6,804トン)が昭和20年に陸軍病院船に転じ連合国側に通告されている(#和浦丸)。「和浦丸」は終戦間際に釜山港で触雷して放棄されたが(#駒宮(1)p.121)、「有馬山丸」は残存した(#野間pp.592-593)。〕、他はすべて連合国軍による攻撃、または触雷で失われた〔例えば、「三笠丸」(東亜海運、3,143トン)は多号作戦で沈没している。〕。「輸送船の機能しかなかった」という一文に関しても、実際に陸軍病院船に関しては病院船というより「還送患者輸送船」といった感じで病院船を運用していた節がある〔#還送患者〕。もっとも、海軍病院船がそういう使われ方をしなかった、というわけではない〔#朝日丸(1)#朝日丸(2)〕。
上記のように連合国軍による通告済み病院船への攻撃が多数行われたものの、それに対して日本軍は条約を遵守して通告済み病院船に対して全く手出しをしなかったのかといえば「否」で、スラバヤ沖海戦直前の昭和17年2月26日のオランダ病院船「オプテンノール」(6,076トン)の抑留と、昭和18年5月14日の伊号第一七七潜水艦(伊177)によるオーストラリア病院船「」(3,222トン)撃沈〔#木俣潜p.440〕が、日本軍が病院船に手出しした例として挙げられる。前者は味方艦隊の行動海域を航行していることが「怪しい」〔#原2011p.14〕と判断され、臨検の結果「とがむべき点は認められなかった」〔ものの、その後の航路指示に従わなかったことから結局抑留・接収され、日本側が使用することとなった〔。後に「天応丸」、次いで「第二氷川丸」と命名され海軍病院船として行動。昭和20年8月18日に沈没(#特設原簿p.113,118)〕。オランダ政府はこれに抗議し、日本側の病院船の不承認をちらつかせたりもした〔#オプテンノート〕。後者は伊177が「セントー」を「病院船とは気付いていなかったらしい」〔#木俣潜p.441〕が、生存者は「日本の病院船への攻撃に対する報復」と受け止めていた〔。それほどに、連合国側の通告済み病院船への攻撃が多発しており、連合国側の将兵が皆その事実を知っていたことを窺わせる。あえて太平洋戦争時以前まで遡って例を挙げるならば、日露戦争での日本海海戦ロシア帝国海軍の病院船「オリョール」(4,500トン)が抑留され、その後の捕獲審判において条約上禁止される軍事目的に使用されたことを理由に没収されている。この際は病院船「コストローマ」も同時に抑留されているが、こちらはそのまま解放されている。病院船の臨検自体は交戦国の権利として認められるものであり、さらに病院船の航路を指示したり、特に必要な場合には抑留することも条約上で認められた行為である〔日露戦争当時の適用法規として、1864年2月2日ジュネーブ条約の原則を海戦に応用する条約 第4条。以後の各条約でも基本的に同様の内容となっている。〕。これにより、オプテンノートの事例はオプテンノート側に非があり、日本軍側が非を働いたとは言い難いもとのなるが、旧日本軍はこれを違法と判断されることを極度に恐れていた節が窺われる。詳しくは「オプテンノート」の項目参照。
昭和20年に入ると、日本の何隻かの病院船の行く手行く所で水上艦艇による臨検(臨検行為は条約内)および、航空機による威嚇飛行(条約違反)が繰り返されるようになる。昭和20年3月25日、基隆に停泊中の陸軍病院船「ばいかる丸」(東亜海運、5,243トン)は、大本営命令によりに向かう〔#駒宮(2)p.365〕。2日後にアパリに到着するも昼夜分かたぬアメリカ軍機の威嚇飛行を受け、バドリナオ岬に移動しても状況は変わらず、「ばいかる丸」はバドリナオ沖から去って3月30日に基隆に帰投した〔。「ばいかる丸」のこの時の任務が何であったかについて駒宮真七郎は、「患者収容に見せかけ、特命の人員を台湾に連れ戻す」〔のが目的であり、その「特命の人員」とは「「翼を失った戦闘機の搭乗員」若しくは「特攻隊員」との見方が本命」〔と駒宮は推測している。7月には、海軍病院船「高砂丸」(大阪商船、9,347トン)が船倉に食糧を搭載して、当時孤立無援の状態だったウェーク島に向かったが、ウェーク島到着前日にアメリカ海軍駆逐艦「マリー」 (''USS Murray, DD-576'') の臨検を受け、食糧にチェックが入った〔#木俣残存p.358〕。これにより、軍用物資でもある食糧の陸揚げが出来なくなり、7月4日にウェーク島に入泊した高砂丸は患者輸送しか行えなかった〔。その患者を乗せる際にも上空からの監視があり、出港後にもまた臨検された〔。その「高砂丸」には燃料輸送用のタンクが設置される計画もあったが、これは「良識派の意見が通」って工事直前に中止になった〔。「高砂丸」や、国際法をたてに軍部からの要請を再三にわたって退けた海軍病院船「氷川丸」(日本郵船、11,622トン)〔#郵船戦時p.552〕のように良心が邪心を退けたために、結果的に戦禍から逃れることができた例もあったが、臨検や威嚇飛行の段階に至らなくても、日本軍には国際法によって病院船が禁じられている武器弾薬や将兵の輸送行為を〔#西村p.11〕、連合国側に発覚されることなく行った事例が実際に存在する。海軍病院船「朝日丸」(日本郵船、9,326トン)は戦艦金剛」、「榛名」宛の弾薬560発を輸送し〔#朝日丸(2)p.24,35〕、「橘丸」も拿捕前に、アンダマン諸島およびニコバル諸島から傷病兵に健全兵を「混ぜて」スラバヤに輸送した疑惑がある〔。真偽は定かではないが、野間恒によれば「関係者の話」〔#野間p.148〕として、「ぶゑのすあいれす丸」も「内地から南方への航海には陸軍将兵を偽装して輸送したり」〔、「ラバウルからパラオに転進する将校が白衣を着て乗船していた」〔。
「オプテンノート」、「ばいかる丸」、「高砂丸」の事例は、通告済み病院船といえども国際法違反の行為の疑念を抱かれた場合、警戒が厳しくなる事を表す。「オプテンノート」抑留はその正当性に関して判断が分かれているが〔〔「違反していない」との見解を取る意見もある()一方、条約違反であるとする見解もある。戦中当時の軍内部ですらこの接収を”完全に合法”とは言い切れなかったと思われ、戦中に日本側は同船の外見を変更する改装を行い、終戦時には隠匿するかの如くこれを自沈させて隠滅を図っている。戦後に船籍国であるオランダは日本に対し船体の賠償を求め、敗戦国であり反論の余地のない日本は賠償を行っているが、これは戦勝国と敗戦国(賠償責務国)としての話であり、合法違法の観点とは別である。〕、「ばいかる丸」は威嚇飛行だけに留まり、「高砂丸」は臨検を受けたが”シロ”と認定された。しかし、「橘丸」は国際法違反を冒していた状態で早々に敵側にマークされており、臨検を受け、”クロ”と認定されて拿捕された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「橘丸事件」の詳細全文を読む




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