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横山エンタツ : ミニ英和和英辞書
横山エンタツ[よこやま えんたつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よこ]
 【名詞】 1. beside 2. side 3. width 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

横山エンタツ : ウィキペディア日本語版
横山エンタツ[よこやま えんたつ]

横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師俳優である。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
== 来歴 ==
兵庫県三田市横山に生まれ、祖父は藩医であった。父も医者であった。近所に軍人が多く父は日露戦争で軍医になったために祖父母のもとに預けられる。日露戦争終了後父が姫路で開業医になったので家族で移り住む。旧制兵庫県立伊丹中学校(現在の兵庫県立伊丹高等学校)を2年で中退し、馬賊になるといい家出し、職を転々とする。関西大学の夜間に通った説もある。1914年新派綾田五郎一座に入り初舞台。大正の初め頃にはソウル京城)に叔父が住んでいたので頼ったが叔父は面倒みれないということで断念。演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働いていたこともあった、満州から大連新派連鎖劇の一座に入り、旅順奉天長春と転々、しかし座長が裁判官に拘引され一座を解散、残った仲間で満州で小中村千代兵衛の一座に、鉄嶺では活動写真巡業隊で声色師をやったがうまくいかず後に帰国、次に、時田一瓢一座に入り「横山瓢(よこやまひさご)」を名乗った。その後、堀越一蝶一座で「横山太郎」と改名、多くの巡業劇団に参加する。1919年花菱アチャコと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わる。しかし1922年、本格的に漫才を始め、中村種春砂川捨丸の最初の相方。中村春代の師匠)とコンビを組んで東京で活躍した。1923年夏に横浜朝日座と契約し漫才、民謡安来節の連中らと合流。同年9月に関東大震災に被災し倒れた家屋で鼻を骨折する。
1928年頃から、東京浅草蔵前にあった煙突に似ていた事から「横山エンタツ」を名乗り、1929年8月31日から漫才師、浪曲師踊り子などを引き連れて半年間アメリカ巡業に出る。巡業は失敗したがそこで見たチャップリンなどの喜劇に大きな影響を受ける。横山エンタツの「横山」は出身地(三田市横山町)から採っている。
帰国後、アメリカで見た「店で買い物をしたときに、渡される買い物袋」を、日本で生産して、あてようとし、職人に作らせてデパートに売り込みに行ったが、「日本には風呂敷があるので不要です」と断られたと、花菱アチャコはのちに語っている〔立川談志ひとり会特典CD「とっておきの二大対談・花菱アチャコ/手塚治虫」〕。
1930年に、吉本興業に入社し、花菱アチャコとコンビを組む。秋田實の示唆もあり、漫才師として初めて背広姿で舞台にあがり、当時人気のあった東京六大学野球からネタをとった『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。玉子屋円辰砂川捨丸に代表された古い香りを残す寄席芸である「万才(萬歳から呼び名が変わっていた)」ではを脇に持ち、和装であったものを、当時流行し(その後定着した)背広姿で普段の会話を思わせる展開の形式は画期的で、当初は舞台に出ると「今までの万才をやれ」と野次が飛んだという。しかし勃興した中産階級層を中心に人気が爆発し、1934年に東京の新橋演舞場に出演し、漫才は落語と並ぶ地位を得たと言われるようになる。しかし、この公演期間中に花菱アチャコが中耳炎を患い、大阪に戻って間もなく公演直後に倒れ入院してしまう。このためエンタツはアチャコとのコンビを解消し(舞台でのコンビ結成期間わずかに3年9ヶ月である〔矢野誠一『昭和の演藝 二〇講』p.68〕)、杉浦エノスケと組む(ただしその後も映画においてはエンタツ・アチャコのコンビを一部継続している)。
1941年、「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。
戦後はNHKで『気まぐれショーボート』(1950年1952年)、『エンタツちょびひげ漫遊記』(1952年~1953年)、『エンタツの名探偵』(1953年~1954年)など、長期にわたってラジオ番組のレギュラーを務める。これらの番組は東映で映画化され、こちらもヒットとなった。
ただし、アチャコの戦後のしたたかな大成功と比較すると見劣りがし、漫才コンビ時代と、立場が逆転することとなった。息子の花紀京には、「自分には芸の力がない」と弱音を吐いていたこともあったという。
1953年12月24日に千日グランドの杮落しでアチャコと久しぶりに客の前で「僕の家庭」を披露、1963年にはNHKで放映された「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」(構成:小林信彦)においても披露したが、ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮した。
1969年大阪市から市民表彰を受ける。1971年脳梗塞で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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