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梅謙次郎 : ミニ英和和英辞書
梅謙次郎[うめ けんじろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うめ]
 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

梅謙次郎 : ウィキペディア日本語版
梅謙次郎[うめ けんじろう]

梅 謙次郎(うめ けんじろう、1860年7月24日万延元年6月7日) - 1910年明治43年)8月26日)は、日本法学者教育者法学博士帝国大学法科大学(現東京大学法学部教授東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官文部省総務長官等を歴任。法典調査会民法起草委員・商法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)学監・校長、法政大学初代総理。勲一等瑞宝章受章。
== 経歴 ==
松江藩(現・島根県松江市)で藩医の次男として生まれた。幼少より意思強固で議論に強く、非常な秀才ぶりを発揮した。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科を首席で卒業した後、司法省法学校フランス法を学び、入学当初から首席を占め、病気で卒業試験は未受験にもかかわらず、平常点だけで首席卒業〔森田。七戸 「現行民法典を創った人びと 3」。〕。
文部省国費留学生としてフランス留学を命じられ、飛び級リヨン大学の博士(Doctorat)課程に進学。首席で博士号を取得したが、その博士論文『和解論』は現地でも高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑を受け公費で出版された。1891年には、ドイツベルリンの法律雑誌にもその書評が掲載されている〔岡 「明治民法と梅謙次郎」。〕。同論文は、今もフランスでは法律百科事典に引用されており〔“梅謙次郎について ” 法政大学図書館、2015年11月21日閲覧。〕、現在もなおフランス民法の解釈論として通用している〔七戸 「現行民法典を創った人びと 3」。〕。
富井政章穂積陳重とともに、日本の民法典を起草した三人のうちの一人で、富井や穂積を欠くことはあっても、頭の回転の速い梅がいなければ決して「今日ノ美法典」を見ることはなかったであろうとの評もあり、「日本民法典の父」といわれる〔「穂積、梅対岡松 」(斬馬剣禅 『東西両京之大学』 鳥海安治、1904年1月)47頁。森田。〕。もっとも、梅は拙速主義の立場から民法の構成にはあまりこだわっていなかったため、編別には穂積・富井の考えがより強い影響力を持っていたと推測されている。特に、三名の起草委員の中で指導的立場に立ったのは穂積であった。一方で法典調査会での発言回数はトップを記録しており〔七戸克彦 「現行民法典を創った人びと 1 」(『法学セミナー』第653号、日本評論社、2009年5月、)42頁。〕、梅は内容面よりもむしろ民法典の早期完成に寄与するところが大きかったようである〔有地亨明治民法起草の方針などに関する若干の資料とその検討 」(『法政研究』第37巻第1・2号、九州大学法政学会、1971年1月、)103-104頁。堅田剛著 『独逸法学の受容過程 : 加藤弘之・穂積陳重・牧野英一』 御茶の水書房、2010年12月、ISBN 9784275009050、127頁。「民法編纂 」(穂積陳重著 『法窓夜話』 有斐閣、1916年1月)。〕。それでもなお、伊藤博文内閣総理大臣法典調査会総裁)は、「穂積君」「富井君」と呼ぶ一方で、梅に対しては「梅先生」と呼び重用した〔熊谷開作 「学説百年史 民法(家族法)」(『ジュリスト』第400号、有斐閣、1968年6月)77頁。〕。「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」とも称され〔“梅謙次郎博士 ” 法政大学、2015年11月21日閲覧。〕、日本の法学者の中で唯一、単独で切手(文化人シリーズ)になっているなどその功績を高く評価されている〔“梅謙次郎 ” たむたむホームページ、2015年11月21日閲覧。〕〔穂積・富井も民法起草者として切手になっているが単独ではない。“穂積兄弟 ” たむたむホームページ、2015年11月21日閲覧。〕。
リヨン、ベルリンでの留学から帰国するときには、帝国大学法科大学教授の職務に専念するため、私学には出講しないつもりであったが、レオン・デュリー門下〔富井政章、薩埵正邦、本野一郎、高木豊三は、ともに官立の京都仏学校でレオン・デュリーのもとで学んでいたデュリー門下である。また、梅謙次郎も東京外国語学校時代にデュリーから教えを受けており、デュリーの記念碑が京都南禅寺に建立された1899年、梅と富井はその除幕式に出席するため、東京から駆けつけている(岡 「明治民法と梅謙次郎」)。〕で薩埵正邦(法政大学創立者)とゆかりのある富井政章(薩埵の義理の兄)やリヨン留学時代に世話になった本野一郎(当時和仏法律学校講師)が、横浜港の船内まで出向いて懇請したため、和仏法律学校の学監兼務を承諾した〔法政大学大学史資料委員会、法政大学図書館100周年記念事業委員会編 『法政大学 1880-2000 : そのあゆみと展望』 法政大学、2000年9月。法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、洞口治夫編 『大学教育のイノベーター : 法政大学創立者・薩埵正邦と明治日本の産業社会』 書籍工房早山、2008年4月、ISBN 9784886115102。〕。以後20年間に渡り、学監、校長、初代総理として法政大学の設立、発展に大きく貢献した。
他にも商法韓国の法典起草に加わったほか、行政面でも数多くの役職を兼任するなど、多方面で精力的に活動したが、50歳で急逝した。葬儀は、東京の護国寺で法政大学葬として執り行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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