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松本哲 : ミニ英和和英辞書
松本哲[まつもと]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

松本哲 ( リダイレクト:松本匡史 ) : ウィキペディア日本語版
松本匡史[まつもと ただし]

松本 匡史(まつもと ただし、本名:松本 哲(さとし)〔J SPORTS 3(BS) 2012年9月3日放送 プロ野球2012 東北楽天×オリックス(9/3) 両軍先発投手である永井怜及び小松聖の投げ合いに際し、放送中に本人によって語られる。〕、1954年8月8日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手外野手)。引退後は野球解説者、プロ野球指導者・監督として活動している。業務提携先はTCP-Artist
現役時代は青い手袋と銀縁の眼鏡がトレードマークだった。
年間盗塁数のセ・リーグ記録保持者。
== 来歴・人物 ==

=== 現役時代 ===
報徳学園高校では2年生の時に、左翼手、四番打者として1971年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では、2回戦(初戦)で東邦と対戦する。後に青学大のエースとなる金沢真哉投手が、1回裏、打者13人に対し11四死球という乱調、リリーフの金城成男投手も3四球を続け無安打で11失点。その後は立ち直るが、東邦の水谷啓昭投手に抑えられ4-12で大敗した。夏の選手権は金沢が秋田市立高を完封、2回戦に進出するが、岡義朗遊撃手のいた岡山東商に3-5で敗退。翌年夏は県予選準決勝で山川猛捕手のいた東洋大姫路に敗れた。高校同期に青山忠司(南海)がいる。
卒業後は早稲田大学に進学、内野手に転向する。東京六大学リーグでは1973年春季、1974年春季リーグの2回優勝。1974年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で駒大を降し優勝している。リーグ盗塁記録を塗り替え、リードオフマンとして活躍。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。しかし1976年には肩を脱臼し、長期欠場を余儀なくされる。リーグ通算67試合出場、260打数61安打、3本塁打、35打点、57盗塁、打率.235。大学同期に八木茂吉沢俊幸がいる。
卒業後は社会人野球日本生命に進む予定だったが、1976年のドラフト会議読売ジャイアンツ(以下、巨人)から5位で指名され入団する。入団1年目の1977年6月13日の対大洋戦の9回表に代走で出場してタイムリーヒットでホームインし、味方の打者一巡の猛攻の後に回ってきた打席で、満塁本塁打を打つという珍しい記録を作った。
その後は肩の脱臼がクセになっていたこともあって伸び悩んでいたが、1979年に肩を手術するとともに外野手にコンバートされる。同年秋に長嶋茂雄監督が静岡県伊東スタジアムで行った「地獄の伊東キャンプ」で、俊足を生かす為に右打ちからスイッチヒッターに転向する。当初は全くボールが飛ばなかったが、練習を続けた結果1981年には柴田勲の後の巨人の1番打者に定着し打率3割をマーク。8月15日に神宮球場で行なわれた対ヤクルト戦では、振り逃げを取り消された直後に本塁打を打っている。
1982年1983年に盗塁王を獲得。1983年に記録した年間76盗塁はセ・リーグ記録。走塁の為に特注のワンピースユニフォーム(ヘッドスライディング時にが入るのを防ぐ為)〔1986年からユニフォームの上着がプルオーバータイプになったため、使用は長くとも前年までと思われる。〕、また青色の手袋を着用し当時の巨人のビジターユニフォームが水色であった事とも併せて「青い稲妻」のニックネームを付けられる。これは赤い手袋を着用した「赤い手袋・柴田勲」にあやかったものである。弱肩ではあったが、守備範囲の広い中堅手として守備の要としても活躍。1981年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1982年9月、広島戦で頭部に死球を受け退場、戦線を離脱。切り込み隊長であった松本の離脱が中日の逆転優勝の一因になったとも言われている。
ウォーレン・クロマティ加入後の1985年からレフトを守ることが多くなる。1987年、開幕から打撃好調で前半戦一時は首位打者を独走したものの、6月下旬くらいから突然スランプ気味になり、後半戦、台頭してきた駒田徳広が1番レフトでスタメン出場する機会が増えていく。そんな中、久しぶりにスタメンに起用された試合でイージーフライを落球すると、王監督がこれに激怒。このミスが致命的となり以後さらにベンチを温める日が続くようになる。
新本拠地東京ドーム完成に伴う外野守備陣の強化と簑田浩二阪急)の交換要員(結果的に簑田は金銭トレードで獲得することになる)として名前が挙がったことで事実上の戦力外となるが、この時の年齢は33歳だった。移籍先を探して他球団で現役続行を選ぶ道もあったが、後楽園球場最後の年のリーグ優勝を手土産に、ジャイアンツのユニフォームのまま、引退することを選んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松本匡史」の詳細全文を読む




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