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松平忠固 : ミニ英和和英辞書
松平忠固[まつだいら ただかた]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

松平忠固 : ウィキペディア日本語版
松平忠固[まつだいら ただかた]

松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末譜代大名老中信濃上田藩の第6代藩主。伊賀守系藤井松平家第8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。
最初の老中就任時は松平忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。
== 生涯 ==

=== 最初の老中就任 ===
文化9年(1812年)7月11日、播磨姫路藩主・酒井雅楽頭忠実の次男として江戸で生まれる。文政12年(1829年)9月、同じ譜代大名で老中歴任者の多い上田藩(藤井松平家)の第5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830年)4月20日に忠学が隠居したのを受けて家督を継ぎ、寺社奉行大坂城代を経て、嘉永元年(1848年)、老中に抜擢される。
嘉永6年(1853年)6月、浦賀へ来航して国書を交付してきたアメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーからの開国要求に際し、老中首座・阿部正弘は諸大名朝廷からも意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任じたものの、忠優はこれらに最も反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというものである。
事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩からの幕政への容喙によって余計な混乱を招いたのであり、忠優の危惧は頷けるところである。それに元々御三家といえども幕政に参与する資格など無く、ましてや狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風(暴風)を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。譜代大名重鎮の一つである酒井雅楽頭家の出身者らしい主張である。
また、攘夷論を唱える徳川斉昭の主張は一見威勢はいいが、当時の幕府がアメリカと一戦交えても勝利できるはずはなく、下手をすると国土の一部を割譲されるだけである。それならばいっそ国書を受け取り、早めに開国すべきであるというのが、幕府内で忠優も属する主流派だった穏便・開国派の考えである。そこで、さらに積極的な交易論を唱える忠優は、交易通信の承認に傾けるほど幕閣の大勢を主導していた。
しかし海防水戸学の思想に固まる斉昭と、積極開国派の忠優では見解の一致などあろうはずがなく、両者の対立はエスカレートする。
交易を絶対に認めない斉昭から、強い抗議の意味合いで海防参与の辞職を出願されたため、老中首座の阿部正弘は事態の収拾を図ろうと斉昭に譲歩し、通商通信を許さないという決定を下してしまう〔石井、P87。〕。さらに安政2年(1855年6月30日、忠優と彼に歩調を合わせる松平乗全の両名の老中免職まで要求する斉昭に対し、やむなく屈した正弘によって、8月4日に乗全と共に忠優は老中職を解かれて、帝鑑間詰に戻された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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