翻訳と辞書
Words near each other
・ 東方典礼カトリック
・ 東方典礼カトリック教会
・ 東方典礼教会
・ 東方出版
・ 東方力丸
・ 東方勤労者共産大学
・ 東方医学
・ 東方十字軍
・ 東方号
・ 東方同志会
東方問題
・ 東方国
・ 東方地霊殿
・ 東方地霊殿 〜 Subterranean Animism.
・ 東方外交
・ 東方夢時空
・ 東方夢時空 〜 Phantasmagoria of Dim.Dream.
・ 東方夢時空 ~ Phantasmagoria of Dim.Dream.
・ 東方大学
・ 東方奉神礼


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

東方問題 : ミニ英和和英辞書
東方問題[とうほうもんだい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東方 : [ひがしがた, とうほう]
 【名詞】 1. (1) eastern direction 2. (2) the Orient
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [もん]
 【名詞】 1. problem 2. question 
問題 : [もんだい]
 【名詞】 1. problem 2. question 
: [だい]
  1. (n,vs) title 2. subject 3. theme 4. topic 

東方問題 : ウィキペディア日本語版
東方問題[とうほうもんだい]

東方問題(とうほうもんだい、)は、オスマン帝国およびその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題。広義にはオスマン帝国成立以来、キリスト教ヨーロッパ世界がイスラーム教国であるオスマン帝国の圧迫を受け、それに関わるヨーロッパ諸国間の外交問題。狭義においては18世紀以降のオスマン帝国の解体過程に伴って生じ、19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連するヨーロッパ諸国間の国際問題を意味し、今日一般的にはこの用法で使われる。
== 定義と特徴 ==

「東方問題」は、ヨーロッパから見て東方に位置するオスマン帝国を中心とした地域におけるヨーロッパの一連の外交問題を総称した、主にヨーロッパ側の呼称である。
広義には、14世紀末以降オスマン帝国のバルカン半島進出によって形成された外交問題で、対オスマン十字軍やオスマン帝国を利用したブルボン家の対ハプスブルク家外交などを含み、20世紀前半のトルコ共和国成立にいたるまでのヨーロッパ対オスマン帝国間の外交問題。
狭義の、そして今日一般に使われる意味での「東方問題」は上記のうち、特に後半期の18世紀後半から19世紀後半にかけた外交問題を指し、オスマン帝国解体期にヨーロッパ諸国間の勢力均衡を帝国領の分配によって調整しようとしたものである。
以下今日一般的に使われる「東方問題」として、狭義について説明する。(広義の問題についてはオスマン帝国コソボの戦い第一次ウィーン包囲などを参照。)
バルカン半島のオスマン帝国領は1699年のカルロヴィッツ条約以降縮小・解体に向かい、それに伴ってこの地域へのオーストリアロシアの進出が始まり、また1821年以降のギリシャの独立運動などに代表されるように、バルカン諸民族が独立に向けて活発化するようになる。オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であった。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、一国がオスマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた。またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくにクリミア戦争は各国の政治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。
この一連の問題は、主として、ヨーロッパ諸国にとっては「外交問題」、バルカン諸民族にとっては「民族問題」、オスマン帝国にとっては「領土問題」の側面を持つ。
これを「東方問題」と総称する場合、あくまでヨーロッパ列強から見た「外交問題」の側面が強調される。
列強間の東方に関する外交問題はベルリン会議1878年)で一応の決着を見た。
それ以降、列強の利害は「東方」地域だけでなく、エジプト以南のアフリカ極東を含めて全世界規模で調整されるようになったので、列強にとって「東方問題」の重要性は減じた。
しかし、これはあくまで列強間の外交上のことであり、バルカンの民族問題は全く解決されていなかった。
後にそのことは二度のバルカン戦争によって明らかになり、この民族問題は第一次世界大戦を引き起こす要因のひとつとなった。
最近のコソボ紛争にいたるまでこの民族問題は未だ解決されておらず、今日まで持ち越されている問題である。
このため「東方問題」の決着は見方によって一様ではなく、ベルリン会議とみなす場合が多いが、後に続く紛争も「東方問題」に含めて論ずる場合もある。
これらの問題を「東方問題」と総称する場合、ヨーロッパ側の視点に立ち、一連の問題をオスマン帝国がヨーロッパ諸国の外交秩序に組み入れられていく過程として捉えて説明する傾向が強い。
このことにより「東方問題」は列強の帝国主義政策・膨張政策と関連づけられる傾向にあり、主として
*ドイツ・オーストリアの「汎ゲルマン主義」とロシアの「汎スラヴ主義」の対立
*エジプトとオスマン帝国の紛争およびそれに関わる英仏の中近東政策の対立
*ロシアの南下政策とイギリスの帝国主義政策の対立
*イギリスの3C政策とドイツの3B政策の対立
などを軸として語られることが多い。
東方問題で扱われる問題の一部は、オスマン帝国における近代化へ向けた自己改革運動の側面を持つものもあるが、「東方問題」と総称する場合には、自己改革的な側面は無視あるいは軽視される傾向が見られ、それらの改革運動も最終的には列強との力関係や外交状況に影響されたものと捉えられる傾向にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東方問題」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.