朝鮮語: 연령군、1699年7月5日(康熙38年6月13日) - 1719年5月5……"> 延齢君 について
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李昍 : ミニ英和和英辞書
李昍[り, すもも]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り, すもも]
 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina 

李昍 ( リダイレクト:延齢君 ) : ウィキペディア日本語版
延齢君[のべよわいくん]

延齢君朝鮮語">朝鮮語: 연령군、1699年7月5日康熙38年6月13日) - 1719年5月5日道光16年3月20日)は李氏朝鮮王族本貫全州李氏。幼諱は「仁寿」。は「昍」。は「文叔」、諡号は「孝憲」。粛宗第六子。
粛宗から䄙嬪朴氏と共に寵愛を受けて、様々な特典を受けた。しかし21歳で卒去する。現在でも粛宗の寵愛から推測されるのは、王位継承権を譲渡されると見られる程である。
卒後は恩信君家督相続を受けて、璿源系譜紀略に於いては、玄孫高宗が属籍している。

==生涯==
1699年7月5日昌慶宮集福軒にて粛宗第六子として誕生する。末子であり粛宗は延齢君を非常に寵愛した。これは䄙嬪朴氏を寵愛した為でもある。1703年10月3日延齡君に封爵された。〔『粛宗実録』第38巻 29年(1703年癸未/康熙42年) 旧暦9月3日(丙午)3件目 〕この時は5歳であり、王室典範では王子は6歳未満までは君号を封爵しないと有るが、卒去した䄙嬪朴氏の喪主に相応しい待遇が必要として正当化した。反対意見には免官の処置を以って抑制した。10月19日宗親府有司堂上に任官した。〔『承政院日記』(1703年癸未/康熙42年) 旧暦9月9日(壬子) 宗親府有司堂上宗親府の要職であり、各所から任官撤回の上疏が上奏されていたが、これを粛宗は無視した。1707年3月9日金東弼の娘と婚礼を挙げた。〔『承政院日記』(1706年丙戌/康熙45年) 旧暦12月10日(甲午) 1708年12月16日粛宗貞明公主の邸宅を買収して、延齢君宅に改めた。〔『粛宗実録』第46巻 34年(1708年戊子/康熙47年) 旧暦11月15日(丁丑)3件目 1711年12月14日天然痘を発症した。〔『粛宗実録』第50巻 37年(1711年辛卯/康熙50年) 旧暦11月9日(甲午)1件目 1716年1月16日昌慶宮を出た。〔『承政院日記』(1715年乙未/康熙54年) 旧暦10月8日(庚午) 1717年2月7日五衛都摠府都摠管に任官した。〔『承政院日記』(1716年丙申/康熙55年) 旧暦12月26日(壬子) 1718年5月11日五衛都摠府都摠管に留任した。〔『承政院日記』(1718年戊戌/康熙57年) 旧暦4月12日(庚寅) 7月11日司饔院都提調に異動した。〔『承政院日記』(1718年戊戌/康熙57年) 旧暦6月14日(辛卯) 1719年11月13日卒去した。〔『承政院日記』(1719年己亥/康熙58年) 旧暦10月2日(辛丑) 〕諡号を「孝憲」と追贈された。粛宗は延齢君宅を訪問して、〔『承政院日記』(1719年己亥/康熙58年) 旧暦10月2日(辛丑) 〕3年間は禄俸を支給して、〔『承政院日記』(1719年己亥/康熙58年) 旧暦10月2日(辛丑) 11月15日まで朝市を停止するようにした。〔『承政院日記』(1719年己亥/康熙58年) 旧暦10月2日(辛丑)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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