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朱祐杭 : ミニ英和和英辞書
朱祐杭[しゅ ゆうこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しゅ, あけ]
 【名詞】 1. (1) scarlet 2. red 3. (2) bloody 
: [くい]
 【名詞】 1. stake 2. picket

朱祐杭 : ウィキペディア日本語版
朱祐杭[しゅ ゆうこう]

朱 祐杭(しゅ ゆうこう、朱祐杬とも、1476年成化12年)- 1519年正徳14年))は、朝の皇族。孝宗弘治帝の異母弟で、世宗嘉靖帝の実父。睿宗廟号、献皇帝の諡号を贈られた。
== 生厓 ==
憲宗成化帝の第4子として、邵宸妃(孝恵太后)を母として生まれる。孝宗弘治帝の異母弟、武宗正徳帝の叔父である。1487年に興王に封じられ、1494年に封地である湖広安陸州(現在の鍾祥市)に到る。正徳14年(1519年)6月17日に逝去し、正徳帝からは「献王」の諡号を贈られた。
1521年、正徳帝が嗣子のないまま崩御したため、内閣大学士楊廷和は「皇明祖訓」に拠って皇位継承者を探した。まず弘治帝については、2人の子は夭逝、さらに遡って成化帝については、長子・次子は夭逝、三子が弘治帝、四子の興王朱祐杬も既に逝去していたが2人の子があり、長子・朱厚熙は逝去、次子である朱厚熜が嗣子に立てられており、正徳帝の従弟であったので、新帝として迎立された。
朱厚熜は帝位に就いた後、実父に対し尊号を追贈したいと思うようになり、これが3年半にも及ぶ「大礼の議」と呼ばれる論争の発端となった。朝臣の反対をも顧みず、嘉靖帝は実父に対し興献帝、後にまた献皇帝と追尊した。また生母にも興国皇太后と尊し、弘治帝を「皇伯考」と改称した。1538年9月、祐杭に「睿宗」の廟号が追尊された。もとの興献王の墳墓は明の顕陵へと改葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朱祐杭」の詳細全文を読む




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