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朝倉文夫 : ミニ英和和英辞書
朝倉文夫[あさくら ふみお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning
: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

朝倉文夫 : ウィキペディア日本語版
朝倉文夫[あさくら ふみお]

朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年明治16年)3月1日 - 1964年昭和39年)4月18日)は明治から昭和彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれた。舞台美術家画家朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。
==略歴==
1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。初め俳句を志しており正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の9月20日がまさに子規の通夜であった。
結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた朝倉は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目されることとなる。
1907年(明治40年)、卒業制作として「進化」を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた第2回文展に『闇』を出展し、最高賞である2等となり翌年も「山から来た男」で3等を得るが、欧州留学の夢は破れてしまう(当時、連続で2等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた)。
1910年(明治43年)、最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち突如南洋のシンガポールボルネオの視察へと旅立つ(後に朝倉が著書『航南瑣話』(東和出版社、1943年(昭和18年))で語ったところによれば、この旅行は井上馨(当時朝倉は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の朝倉に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。
1921年大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。1924年(大正13年)に帝国美術院会員となるが1928年(昭和3年)にこれを辞し、1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の朝倉彫塑館)。1935年(昭和10年)、再度帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員。1944年(昭和19年)東京美術学校教授を辞し帝室技芸員(7月1日〔『官報』第5239号、昭和19年7月3日。〕)、従三位、勲四等瑞宝章受章。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために400点余の朝倉の作品はほとんど消滅してしまう(原型は300点余が残された)。
戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受章。1949年(昭和24年)、日展運営会常務理事。1952年(昭和27年)に文化功労者に、1954年(昭和29年)、日展理事、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)まで日本芸術院第一部長。1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残した。
1964年(昭和39年)4月18日、急性骨髄性白血病にて死去。。正三位を追贈される。墓所は谷中霊園にある天王寺飛地にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朝倉文夫」の詳細全文を読む




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