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押川清 : ミニ英和和英辞書
押川清[おしかわ きよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

押川清 : ウィキペディア日本語版
押川清[おしかわ きよし]

押川 清(おしかわ きよし、1881年明治14年)1月1日 - 1944年昭和19年)3月18日)は日本のアマチュア野球選手。
早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。
父は牧師東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一
==経歴==
宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。
上京し早稲田中学(現・早稲田高校)に入学したが、1897年(明治30年)秋に郁文館中学(現・郁文館高校)に転校し、ベースボール部に入部する。ここで、後に早稲田大学野球部初代主将となる大橋武太郎とバッテリーを組み、当時の強豪であった一高を三度にわたって破るなどした。
郁文館中学卒業後の1902年(明治35年)、早稲田大学に入学。野球部に入部すると橋戸信河野安通志らと共に中心選手としてプレーし、三代目主将も務めた。1906年(明治39年)に早稲田大学がアメリカ遠征をした際のメンバーにも選ばれている。
1907年(明治40年)、早稲田大学を卒業し、志願兵として軍隊に一年入隊。除隊後は鉱山事業を志し東北各地を調査したが、これは成功しなかった。
1920年(大正9年)、早稲田時代からの付き合いである橋戸、河野と共に、日本最初の職業野球チーム「日本運動協会」の創立に参加。押川の役割は顧問兼コーチであった。しかし、このチームは関東大震災の影響などもあって解散してしまう(詳細は、日本運動協会の項を参照)。
1936年(昭和11年)には、河野と共に中日ドラゴンズの前身である名古屋軍(「名古屋金鯱軍」の設立に関わったとしている資料もあるが、これは誤り)の設立に関わり、相談役兼顧問兼マネージャーを務めた。翌年、河野と共に名古屋軍を辞め、新球団・後楽園イーグルスの設立に関わる。ここでは球団社長を務めた。
1944年(昭和19年)、食道ガンのため死去。63歳。墓所は多磨霊園
1959年(昭和34年)、第1回野球殿堂入り。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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