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徳川継友 : ミニ英和和英辞書
徳川継友[とくがわ つぐとも]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 

徳川継友 : ウィキペディア日本語版
徳川継友[とくがわ つぐとも]
徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日1692年3月25日) - 享保15年11月27日1731年1月5日))は、江戸時代の第6代尾張藩主である。
==経歴==
第3代藩主・綱誠の十一男〔一説に十二男、または十三男〕、母は側室・林氏女(和泉)。正室は近衛家熙の娘・安己君(あこぎみ)。子は八三郎(夭折)、養女・三千君(兄・徳川吉通の娘で継友の姪にあたる、九条幸教の正室となる)。幼名は八三郎元服の後、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を賜って通幸(みちゆき)、次いで通顕(みちあき)と改め、さらに将軍・徳川家継の偏諱を賜り継友と改める(「友」は祖父・光友から1字を取ったものである)。
正徳3年、兄・吉通、甥・五郎太の相次ぐ急死により第6代藩主となる。長い間「お控え」として、結婚もできず捨扶持を与えられた生活から一躍浮上した嬉しさからか、五郎太が没した翌日に側近や家臣を招いて壮大な酒宴を開き、これはさすがに不謹慎であると御付け家老・竹腰正武から諌められた〔朝日重章著『鸚鵡籠中記』正徳3年10月19日条。〕。
第6代将軍徳川家宣は、継友(当時は通顕)の兄で尾張第4代藩主であった徳川吉通を第7代将軍にしようとした。吉通兄弟の父である尾張第3代藩主・徳川綱誠は、尾張第2代藩主・徳川光友と第3代将軍・徳川家光の長女・千代姫の実子であり、尾張徳川家は、もっとも将軍家に近い血筋でもあった。しかし、間部詮房新井白石らの反対があり、家宣の実子で生き残っていた鍋松が第7代将軍・家継となる。尾張藩には「将軍位を争うべからず」という不文律もあった。〔『圓覺院様覚書二十五箇条』近松茂矩(吉通の側近)著〕 。吉通が薨去し、第7代将軍・家継が危篤に陥ると、将軍候補は紀州徳川吉宗と、尾張徳川継友の二人に絞られた。継友は、吉通と同じく、将軍家に最も近い血筋であった。しかも、関白太政大臣・近衛家煕の次女である安己姫と婚約していた。安己は大奥の実力者天英院近衛煕子の姪であり、姉近衛尚子は、中御門天皇の女御になることが決まっていた。間部詮房はじめ、家継の幕閣達は、継友を尾張藩の御連枝として従四位下左近衛権少将大隅守という官位を与えており、継友は大奥からも幕閣からも、そして朝廷からも推されているように見られていた。ところが、天英院は姪が嫁ごうとしている尾張徳川家の継友ではなく、紀州徳川家の吉宗を指名し、第8代将軍は吉宗になってしまう。このとき、尾張の附家老であった成瀬正幸竹腰正武など尾張の重臣たちは、「尾張は将軍位を争うべからず」に基づいて、積極的に継友の将軍位就任運動をしていなかった。唯一、間部詮房たちにより、異例の速さで従四位下侍従安房守となっていた継友の異母弟の松平通温は、兄・継友の将軍位就任を望んでいた。〔通温は、異母兄・継友が将軍位に就けなかったことを恨み、酒食に溺れて名古屋城下の屋敷に押し込められてしまう。『尾張徳川家譜』『徳川実紀』等〕 。
継友は幼少より金銭を蓄積することに熱心、「性質短慮でケチ」と領民の評判は今ひとつで〔『名古屋市史』〕、前述のように将軍位継承争いに敗れた後は、尾張大納言と尾張大根をかけて「切干大根」というあだ名があった(ただし、継友は大納言に任ぜられていない)。
また、伊勢神宮への参拝とその大麻札を将軍家に上程した日は、朝廷の制中であり〔『徳川実紀』〕 、時を弁えていない行動も少なからずあった。
一方、綱誠の頃より、第5代将軍・綱吉の「御成費用」などで逼迫してきた藩財政の建て直しを図り、役職を整理したり、一族への給与の削減などをして(これらの処置が先述の批判につながる)〔御連枝川田久保友著に関してはすぐに旧に服させている。この明細には、何故か松平通春(徳川宗春)の記述が見られない。〕 、享保13年には金13,372両余、米27,815石余の黒字を残した〔この数字は江戸時代後期の尾張藩勘定方のメモが典拠になっているが、継友が藩主の時に尾張藩の江戸上屋敷市谷邸および四谷邸が火災で全焼しており、中屋敷麹町邸の普請も重なり、幕府より二万両の下賜(『徳川実紀』)があり、実質は黒字ではなかった。これと同じ情報操作が第8代藩主・徳川宗勝でも行われている。宗勝の時代も尾張藩江戸上屋敷市谷邸が全焼しているにもかかわらず、黒字となっている。〕 。緊縮財政下にもかかわらず、名古屋の発展も著しく、江戸の豪商三井家越後屋が再びの出店をし、城下町人口も7万人を超えるに至った。これらが次代・宗春の飛躍にもつながったのである。〔継友に関しての評価は、本人の能力と言うよりも成瀬正幸竹腰正武石河正章などの家臣が優れていたおかげである。〕
享保15年11月27日(1731年1月5日)に後継者がいないまま麻疹のため死去した。享年39。異母弟の松平主計頭通春(後の徳川宗春)が跡を継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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