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徐州作戦 : ミニ英和和英辞書
徐州作戦[いくさ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [す, しゅう]
 (n) sandbank
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
作戦 : [さくせん]
 【名詞】 1. military or naval operations 2. tactics 3. strategy 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

徐州作戦 ( リダイレクト:徐州会戦 ) : ウィキペディア日本語版
徐州会戦[じょしゅうかいせん]

徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦とは、日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省山東省安徽省河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
==背景==
1937年12月の南京攻略後、日本政府は1938年1月16日に「国民政府を対手とせず」との声明を発表し(近衛声明)、戦争終結の糸口を失っていた。日本はすでに多くの兵力を動員していたため、国力を蓄える必要があった。そのため、参謀本部では1938年夏までは新作戦を行わないという方針を固め、2月16日御前会議天皇の承認を得た。一方、黄河の線まで到達していた北支那方面軍と南京占領後停止していた中支那派遣軍は、津浦線天津浦口)を打通して南北の占領地域を繋げることを要望していたが、参謀本部には認められていなかった〔『太平洋戦争への道 第4巻 日中戦争 下』、42-45頁。〕。
参謀本部の方針は、1938年内は作戦を休止して国力を蓄積し、1939年以降から大作戦を行うという長期持久構想だった。現地軍はこの消極的な方針に不満を持っており、参謀本部の河辺虎四郎作戦課長は現地に赴いて説得に努めたが納得を得られなかった。河辺は帰京直後の3月1日に更迭され、後任には稲田正純中佐が就いた。稲田中佐は、現地軍をコントロールするためには積極的な作戦が必要だと考えていた。こうした時に、山東省第2軍が占領地正面の中国軍を撃滅したいと要請してきた。参謀本部はこれを認可したが、第10師団第5師団の一部部隊が山東省最南部の台児荘に進出したところ、中国軍の大部隊に包囲されて苦戦、撤退するという事態に至った〔〔『日中戦争の軍事的展開』、158-159頁。〕。
中国軍は第5戦区司令長官李宗仁指揮のもとに、野戦軍約40万から50万人の大兵力を徐州付近に集結させていた。徐州は津浦線と隴海線蘭州連雲港)の交差する地点で戦略・交通上の要衝である。台児荘はその徐州防衛の第一線で、中央直系の第20軍団(湯恩伯)も投入されていた。台児荘の戦い後には、第5戦区軍の兵力は増援を受けて60万人にまで拡充された。日本陸軍内では、この好機を捉えて国民党軍主力を包囲撃滅しようという意見が高まった。
4月7日、大本営は「徐州付近の敵を撃破」することを北支那方面軍・中支那派遣軍に命じ、不拡大方針は二ヶ月足らずで放棄された。参謀本部作戦部長橋本群少将らが大本営から派遣され両軍を作戦指導することになったが、作戦会議では「徐州の攻略」(方面軍・第2軍)と「敵の包囲撃滅」(派遣軍・第1軍)どちらを優先するかで意見が対立した。大本営派遣班は徐州攻略に同調したが、結局明確な判決を出さないまま作戦は開始された〔益井、172頁。〕。また、徐州作戦の実施に伴って次期作戦である漢口広東攻略の研究も始まっていた〔『日中戦争の軍事的展開』、160頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「徐州会戦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Xuzhou 」があります。




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