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広瀬叔功 : ミニ英和和英辞書
広瀬叔功[ひろせ よしのり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せ]
 【名詞】 1. current 2. torrent 3. rapids 4. shallows 5. shoal 

広瀬叔功 : ウィキペディア日本語版
広瀬叔功[ひろせ よしのり]

広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年8月27日 - )は、広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市)出身の元プロ野球選手外野手内野手)・監督野球解説者ホークスがパ・リーグの盟主として君臨した1950年代後半-1960年代に「鷹の爪」とも呼ばれたリードオフマン〔〔「さらば!南海ホークス」ベースボールマガジン社 1988年〕。愛称は「チョロ」〔新宮正春 「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」 講談社 1999年 p336-337〕。
通算盗塁数歴代2位、通算盗塁成功率歴代1位。
== 来歴・人物 ==

=== プロ入り前 ===
建設請負業を営む父・千代治と母・マツ子の間に生まれた。7つ上の姉は中学校教師で嫁ぎ相手も中学校教師、次の姉も短大講師に嫁ぐという家庭に育ち、広瀬も小・中学校のころは、将来は学校の先生になると決めており、普通科のある大竹高校に進学した。父・姉も高校で野球を続けるすることには反対しており、「野球をやらない」という一札を本人(叔功)からとっていた。父は「広大にでも入ってもらいたい」と思っていたが、入学後、毎日のように野球部から勧誘を受け、家族に黙って「とうとう野球部に入ってしまった」という〔週刊現代 夏堀正元「新・人物誌「今日の栄光を」広瀬叔功」1964年〕〔。尚、弟(邦敏)は1965年の第一回ドラフト会議で、巨人から4位指名を受けている(入団せず)。
高校時代は2年生秋から投手をし、3年夏にはエースで4番であった。二塁走者をけん制しようとしたが、野手が動かないので、マウンドから二塁へ向かって走り走者を刺した、という逸話を残している〔。
2年生の時に先輩の森内勝巳に誘われ、地元・広島の入団テストを受けて共に合格した。森内は卒業と同時に広島に入団したが、遊び半分で受けただけの広瀬は広島には入らなかった。
大竹高校は予選にも勝てない弱小高校で(広瀬は自著〔で「修学旅行と試合が重なったら躊躇なく修学旅行を取るような野球部だった」と述懐している)、広瀬にも注目は集まらなかったものの、1954年に当時の監督・山本(鶴岡)一人の知人・上原清二(広商で鶴岡と同窓)の強い勧めで南海ホークスにテスト生の投手として入団した〔大阪日刊スポーツ編著「感涙!ナニワ野球伝説」朝日新聞出版 2011年 p162-189 ニッカンの名物連載「伝説」が本に! 広瀬叔功編 〕。テスト時、ネット裏で観ていた山本(鶴岡)は「大したピッチャーとちゃうで。法政に行かせとけ」といったが、上原がねじ込んでやっと採用してもらったという(後年、上原は「オレの方が選手を見る目があったやろ」と自慢していたという)〔。
尚、大竹高校の後輩の一人には、やはり俊足で鳴らした簑田浩二がいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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