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平松政次 : ミニ英和和英辞書
平松政次[ひらまつ まさじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

平松政次 : ウィキペディア日本語版
平松政次[ひらまつ まさじ]

平松 政次(ひらまつ まさじ、1947年9月19日 - )は、岡山県高梁市出身のプロ野球選手投手)、野球解説者
カミソリシュート」の異名を取る、高速かつ凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、大洋ホエールズで18年間活躍した。愛称は「カミソリ平松」。風邪をよく引いたり故障が多かったことから「ガラスの平松(ガラスのエース)」とも。
== 経歴 ==
3歳で父親と死別〔現役引退後に出演した資生堂「ヴィンテージ」CMより〕。
岡山県立岡山東商業高等学校時代の、湊山球場での秋季中国大会決勝で米子東に敗れたが、準優勝の成績を収め、翌春の第37回選抜高等学校野球大会に出場。39イニング連続無失点の大会新記録を樹立し、決勝で藤田平のいた市和歌山商を、延長13回サヨナラ勝ちで降し優勝した。同年夏は県予選準決勝で倉敷商松岡弘、東中国大会決勝で関西高校森安敏明に投げ勝ち甲子園出場を決める。この大会では春夏連覇が期待されたが、1回戦で降雨ノーゲームによる再試合の末、日大二高に敗れた。
同年の第1回ドラフト会議中日ドラゴンズに4位指名を受けるが入団拒否。社会人野球日本石油に入社した。翌の第2回第2次ドラフト会議大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団保留。このドラフト会議では巨人から1位指名の確約を受けていたが、巨人は槌田誠を指名した。巨人は競合した槌田の抽選に外れた場合、平松を指名する予定であったといわれている。8月8日に行われた第38回都市対抗野球大会で優勝し橋戸賞を受賞。大会終了の2日後、大洋に入団〔大洋と入団契約を交わした1967年8月10日は大洋の平松との交渉権が切れる当日でもあった。都市対抗野球大会の終了日がこの日以降になった場合、大洋が自動的に平松との交渉権を喪失することを意味した。平松は事前に大洋側に対して、大会の終了後に入団表明を行うとしていた(大会中にプロ入りを表明した場合、即座にアマチュア資格を剥奪されるため)。また当時「巨人が平松の大洋入団を阻止するために、大会終了後直ちに平松を雲隠れさせる」という噂が飛び交っており、そのため大洋の関係者達はひたすら8月10日までに大会が終了することのみを願っていたという(岡邦行『江川になれなかった男たち』p.91-92)。〕。なお、入団説得のために高校の先輩でもあり、当時の大洋の主力選手であった秋山登土井淳も平松の許に訪れた〔フジテレビONE「プロ野球ここだけの話」2011年12月20日放送にて〕。
1・2年目はチャンスがなく、一軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、打席に立った近藤和彦から冷やかしで投げさせられたのが、本人も初めて投げたシュートであった。初めて投げたシュートは胸元に食い込み、驚いた一軍選手がコーチに報告してチャンスが到来した〔テレビ愛知制作『プロ野球列伝』より。シュートボール項参照。〕。
そして3年目のに14勝をあげて頭角を現す。翌年のは25勝をあげ〔1970年の25勝のうち、7勝(完封4・防御率1.50)が巨人戦での勝ち星だった。これは、チーム全体の巨人戦勝利数(14勝)の半分にあたる。平松はこのシーズンから、「カミソリシュート」にスライダーを組み合わせるようになった。なお、巨人監督の川上哲治はこの年のペナントレースを振り返って、「平松に抑えられなかったら、ウチはもっと楽に優勝できた(2位阪神とのゲーム差は2)。シュート・直球・スライダーの組み合わせには王も長嶋も手が出なかった。」という趣旨の発言をおこなっている(岡邦行『江川になれなかった男たち』p.92)。〕、最多勝利投手のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞。また、セ・リーグベストナインにも選出された。も17勝で2年連続最多勝。12年連続2桁勝利をあげるなどエースとして低迷するチームを支えた。現役末期は怪我に泣き「ガラスのエース」と呼ばれたが、に200勝を達成。甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは現在のところ平松だけである(王貞治柴田勲は打者として名球会入りしている)〔甲子園優勝投手でプロ通算200勝を記録した投手としては他に野口二郎(237勝)がいるが、野口は大正生まれのため名球会員ではなかった。また、200勝以上の投手のうち、プロで現役としての優勝経験がないのは野口と平松だけである。〕。
限りで現役引退。リーグ優勝は経験できなかった(Aクラス経験はある)。同じ岡山県出身の星野仙一(中日)、松岡弘(ヤクルト)と共に、「打倒巨人」に燃え、巨人キラーとして活躍。彼の投げるシュートボールは「カミソリシュート」と呼ばれ、数多くの右打者バットを根元からへし折った。全盛期には、ど真ん中のボールが、右打者の体に当たるくらいまで変化したとまで言われている。
引退直後、近藤唯之が「あなたは巨人戦51勝、200勝も達成した。悔いはないでしょう。」と尋ねたところ、「自分は現役生活で1度も優勝できなかった。それに鈴木啓示はまだやっている(鈴木は同学年でライバルかつ親交があった)。2つも悔いがあるんですよ」と語っている〔近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮文庫〕。
また、投手としては打撃にも優れ、投手では歴代4位の通算25本塁打を記録した。ちなみに、漫画「巨人の星」にて大リーグボール3号を初めてヒットにした打者である。
引退後はフジテレビフジテレビONEプロ野球ニュース」などで司会を担当することもある)、ニッポン放送(2005年まで)、テレビ神奈川の野球解説者を務め、現在に至る。大洋や後身の横浜、DeNAの監督・コーチなどに就任することはなかったが、に横浜が日本一になった時には我がことのように喜んでいた。また、2006年に発足したNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティの初代理事長に就任した。この団体はベイスターズが新日本石油株式会社と提携して、スポーツを通じて地域貢献を目指す法人である。平松がベイスターズ・日本石油野球部(現新日本石油ENEOS)双方のOBに当たる縁から就任要請を受けたものである。
2006年6月2日、横浜スタジアムの右翼外野部分に名球会入りした選手を称えるプレートが設置された。
2012年12月1日、ホエールズ ベイスターズOB会の会長に就任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「平松政次」の詳細全文を読む




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