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島津光久 : ミニ英和和英辞書
島津光久[しまつみつひさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

島津光久 : ウィキペディア日本語版
島津光久[しまつみつひさ]

島津 光久(しまづ みつひさ)は、江戸時代前期の外様大名薩摩藩第2代藩主。初代藩主・島津忠恒(家久)の子、島津義久の玄孫にあたる。
== 生涯 ==
寛永元年(1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年)4月1日、将軍徳川家光から、松平の名字と、偏(「光」の一字)を与えられ、初名の忠元(ただもと)から光久(「松平薩摩守光久」)に改名〔村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社 ISBN 4-8231-0528-1〕。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだために実際には島原の乱に参加することはなかった。
内政では財政の立て直しのために家老の島津久通に命じて寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった〔『鹿児島県の不思議事典』新人物往来社 ISBN 4-404-02994-2〕。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。
また光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶〔『職掌起原』では初代異国方宗門方掛け家老という。〕を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。
その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年)隠居して孫・綱貴に家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている〔『藩史大事典』7巻「九州編」雄山閣 ISBN 4-639-00725-6〕。
鹿児島の名園・仙巌園はこの光久の命によって築かれた物である。また鹿児島県の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる〔鶴屋八幡HP 〕。
徳川光圀が江戸に後楽園を作って大名たちを招待した際、光久も招かれて行った。光圀が後楽の意味を説明している最中、光久はいきなり裸になり池に入って泳ぎ回った後「よくできた池でござる」と挨拶した〔海音寺潮五郎史談 切り捨て御免』 文春文庫 ISBN 4167135299、144-145p〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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