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岸田森 : ミニ英和和英辞書
岸田森[きしだ しん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きし]
 【名詞】 1. bank 2. coast 3. shore 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [もり]
 【名詞】 1. forest 

岸田森 : ウィキペディア日本語版
岸田森[きしだ しん]

岸田 森(きしだ しん、1939年10月17日 - 1982年12月28日)は、日本俳優声優劇作家演出家
== 来歴 ==
1939年(昭和14年)、東京市杉並区阿佐ヶ谷(現・東京都杉並区阿佐谷)にある河北総合病院にて誕生する。5歳頃まで中野区本町通りに住んでいた。
1944年(昭和19年)、5歳。疎開先の箱根町立湯本小学校へ入学。
1947年(昭和22年)、8歳。帰京し、千代田区の九段小学校へ転校する。九段小学校の同級生に大空真弓がいた。麹町中学校から海城高等学校を卒業。麹町中学校の同級生に衆議院議員の加藤紘一、海城高校の1年後輩にはフリーアナウンサーの徳光和夫がいた。
この小学3年生のころから、蝶の収集を始める〔「朝日新聞」1974年6月2日。〕。
1958年(昭和33年)、19歳。一浪後法政大学英文科へ入学するが、2年生の時に俳優の道を志し、中退したという。
1960年(昭和35年)、21歳。文学座附属演劇研究所に研究生として入団。研究発表会のような内輪の演劇ばかりで、「年間収入が2〜3万円という暮らしが5〜6年続いた」と語っている。
1964年(昭和39年)、25歳。同期である女優・悠木千帆(後の樹木希林)と結婚する。
1965年(昭和40年)、26歳。文学座座員に昇格。
1966年(昭和41年)、27歳。年頭に退団。悠木、村松克己草野大悟らと劇団「六月劇場」を結成し、以降は主に映画・テレビに活躍の舞台を移す。
同年の『氷点』(NET)が本格的なテレビ初出演と本人は語る。
1968年(昭和43年)、29歳。悠木(樹木)と離婚後、バーのマダムと再婚するが再び離婚。その後は女優・三田和代と交際関係にあった。『怪奇大作戦』(TBS)が、円谷プロとの初仕事となる。この作品への出演が自身の芝居の一大転機になったと語り、以後「僕は円谷育ち」と公言している。
1971年(昭和46年)、32歳。東宝映画『呪いの館 血を吸う眼』(山本迪夫監督)で吸血鬼を演じ、和製ドラキュラとの評価を得る。この東宝『血を吸う』シリーズ〔『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形(1970年)』『呪いの館 血を吸う眼(1971年)』『血を吸う薔薇(1974年)』の3作。なお、しばしば誤認されるが岸田は第1作には出演しておらず、小林夕岐子の演ずるメインキャラクターも吸血鬼ではない。〕は代表作となった〔吸血鬼役に抜擢された理由は、大の酒好きであったため朝から酒を飲んで身体を壊し、肌の色が病的に白く植物的だったからと、監督は語っている。岸田本人もドラキュラ役は非常に気に入っていたようで、ジョージ・ハミルトン主演のアメリカ映画『ドラキュラ都へ行く』(1979年、スタン・ドラゴッティ監督)で吹替えを演ったり、晩年、ドラマ仕立てのTVバラエティもんもんドラエティ』(テレビ東京)でドラキュラ(キャラクター名は「アルカード」)をユーモアたっぷりに演じていた。〕。『帰ってきたウルトラマン』では主人公の師で兄代わりでもある坂田健役を好演した。
1973年(昭和48年)、34歳。円谷プロのテレビ特撮『ファイヤーマン』(日本テレビ)に出演。脚本を手がけた第12話では、部分演出も行う。また、スケジュールの合間を縫って、たびたびアジア方面へ蝶の採集に向かう。この年、和製ドラキュラの草分けともいえる天知茂と、天知主演のテレビ時代劇『無宿侍』(フジテレビ)第6話において兄弟役で共演している。
1977年(昭和52年)、38歳。『歌麿 夢と知りせば』(太陽社)に主演。生涯唯一の一枚トップクレジットで遇された映画、しかも映画主演経験を持つスターが十人以上も居並ぶ大作であり、カンヌ映画祭でも上映され話題を集めた。当作をはじめとして、円谷プロ以来のつきあいである実相寺昭雄監督は、後述の岡本喜八監督がバイプレイヤー、敵役としての魅力を引き出し続けた(但し、「座頭市と用心棒」でタイトルの二大スターに対抗する第三の剣豪役を振るなど、思い切った厚遇も多い)のに対し、ドラマ全体を支える役をあてることが多く、岸田にとってともに甲乙つけがたい名伯楽であった。
1980年(昭和55年)、41歳。テレビ公共広告の演出を手がけ、これと前後して、テレビコマーシャル分野で演出家としても腕をふるう。「エスビー食品」など水谷豊の主演するCFについては、「演出補助」と肩書きされるが、本人は「あれはすべて僕が演出しました」とコメントしている。
1982年(昭和57年)、12月28日午前4時59分 、食道ガンのため、43歳の若さで死去。墓所は神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園。訃報から間もない頃、前年出演したテレビ作品『太陽戦隊サンバルカン』(東映)の再放送が関東地方で始まり、第1話の岸田初登場シーンでは追悼テロップが流れている。葬儀の際に、岸田を弟のように可愛がっていた若山富三郎は、「こんな事になるんだったら、お前を殴ってでも絶交してでも酒を辞めさせるべきだった」と後悔のコメントを残した。葬儀では三田和代が遺影を持って挨拶した。「シーン」と涙ながらに叫ぶ場面は民放のワイドショーで中継された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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