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山本守礼 : ミニ英和和英辞書
山本守礼[やまもと しゅれい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [もり]
 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting 
: [れい]
 【名詞】 1. expression of gratitude 

山本守礼 : ウィキペディア日本語版
山本守礼[やまもと しゅれい]
山本守礼(やまもと しゅれい(もりひろ)、宝暦元年(1751年 - 寛政2年2月26日1790年4月10日))は、江戸時代中期の絵師。本姓は藤原、旧姓は亀岡。は守貞、のち守礼。通称は数馬、主水。字は子敬、号を久珂、探芳斎、猶亭。円山応挙の弟子。今日「守礼」は「しゅれい」と読まれるが、当時の宮中では「もりひろ」と読んでいた。山本家は京都で代々狩野探幽の流れをくむ画系で、守礼はその6代目だが、守礼の代で円山派に転向した。
== 略伝 ==
京都の富商茗荷屋亀岡五良右衛門の次男として生まれる。宝暦14年(1764年)2月25日兵庫寮下司鉦師となる。明和7年(1770年)の仙洞御所造営で初めて宮中御用を務めたが、この時はまだ山本家に養子入りしていない。先代の山本探川安永4年(1780年)に亡くなった翌年、山本家を継ぎ〔『大外記師資記』安永5年6月5日条(福田(2011)p.87)〕、更に翌年鉦師を引退している。ただし、山本家の家屋敷は継がず、または譲られず、生家の近くに住み、墓所も山本家代々とは別である。天明2年(1782年)版の『平安人物誌』に「藤守礼 号 山本主水」とあることから、既に一家を成していたことがわかる。山本探川には早世した男子の他に、もう一人男子がいたが画業は継がず、地下官人の野村家に養子に出て野村嘉業となっている。実子がいながら養子を取って跡を継がせる理由は不明だが、似た例は原在中やその子原在明にも見られ、絵の技量などを考慮して養子を取り、実子には安定した地下人の道へ進ませたとも考えられる〔福田(2011)pp.91-92。〕。
いつ頃から応挙の門に入ったかは不明だが、かなり早くからだと考えられる。天明4年(1784年)閏1月に尾張の旧明眼院書院(現東京国立博物館応挙館)、更に天明7年(1787年)には香美町大乗寺で、共に応挙にしたがって障壁画を描く。この時大乗寺障壁画に参加した門人は、島田元直秀雪亭亀岡規礼と守礼の4人だけであり、守礼は応挙門下中では早い時期の主要画家だった。寛政度の禁裏御所造営に伴う障壁画制作にも出願し採用されるも、師に先立って早世。死因は病気だった守礼が自ら井戸に水を汲みに行き、誤って落ちたためだという〔「禁裏御所御用日記」のうち土山武辰の日記『造内裏御指図御用掛記并自分記』(国立国会図書館蔵)〕。墓所は上京区妙蓮寺。守礼の跡は、しばらく後に亀岡規礼が継いだ。
人物花鳥に優れたと言われるが、短命だったため現存する作品は10点に満たない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山本守礼」の詳細全文を読む




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