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尾亦弘友希 : ミニ英和和英辞書
尾亦弘友希[おまた ひろゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [また]
  1. (adv,conj,n) again 2. and 3. also
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 
: [まれ]
  1. (adj-na,n) rare 2. seldom

尾亦弘友希 : ウィキペディア日本語版
尾亦弘友希[おまた ひろゆき]

尾亦 弘友希(おまた ひろゆき、1983年9月1日 - )は、東京都杉並区出身の元プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー(主に左サイドバック)。
== 来歴 ==
小学校2年生の時にサッカーを始める。FC東京の下部組織に加入し、同期の馬場憂太石川高大来栖由基高橋延仁らと共に2001年のクラブユース選手権で優勝した。2002年、馬場と共にFC東京のトップチームへ昇格〔 FC東京 (2001年12月11日)〕。クラブ創設以来初の下部組織からのトップ昇格だった。同年4月の市原戦で左サイドハーフとして途中投入され〔試合記録 Jリーグ ディビジョン1 ファーストステージ第5節 FC東京 (2002年4月6日)〕、この試合がJリーグデビューとなった。U-19日本代表としても活動し、左足のキックに高評価を受けていたが、馬場が主力格となる一方で、尾亦は金沢浄らからポジションを奪えずにいた。2003年には2ヶ月間、FCポルトへ短期留学〔 FC東京 (2003年8月12日)〕。2004年には大宮アルディージャ期限付き移籍〔 FC東京 (2003年12月22日)〕〔 大宮アルディージャ (2003年12月22日)〕。大宮ではセンターバックとしても練習を積み、守備面を強化させた。2005年にFC東京へ復帰。左足からのクロスに力強さを増したものの、サイドバックのバックアッパー〔FC東京の実体 (1/3) 05シーズン版FC東京 スポーツナビ (2005年6月2日)〕を務めるに終わった。
2006年よりJ2を戦う湘南ベルマーレに完全移籍〔 FC東京 (2005年12月9日)〕。同年のリーグ戦では出場停止を除く全試合に出場し、チーム最多・最長出場を記録〔選手出場記録 (2006年12月2日)〕。左サイドバックのレギュラーポジションをほぼ手中に収めた。これまで尾亦を見守ってきたFC東京の長澤徹ヘッドコーチによると、2005年当時、プレーからやる気が感じられなくなっていた尾亦に対し「お前は(このままだと今季限りで)クビだから。自分の子供が生まれても、サッカー選手だったことを隠すだろ」と突き放したところ、尾亦はこの言葉に奮起して、これ以後ダッシュやフィジカルの練習をトップでこなすようになったという。結果的には長澤の予告通り契約非更新となってしまったが、Jサテライトリーグなどでの懸命なプレーが伝わって、湘南でチャンスを掴むことができたとのこと〔『GIANT KILLING extra Vol.03 「才能と努力の係数 - 長澤徹(FC東京コーチ)」』 講談社、32-33頁、2010年10月 (ISBN 4063895114/ISBN-13 978-4063895117)〕。
2008年からJ2セレッソ大阪へ完全移籍〔 湘南ベルマーレ (2007年12月12日)〕〔湘南ベルマーレより尾亦弘友希選手移籍加入のお知らせ セレッソ大阪 (2007年12月12日)〕。湘南在籍時には果たせなかったJ1昇格を目指していたが、3月の第4節仙台戦で右大臀部筋損傷を負い2ヶ月の離脱〔尾亦弘友希選手の負傷について セレッソ大阪 (2008年3月25日)〕。戦線復帰後の8月、第30節古巣・湘南戦では右アキレス腱断裂の大怪我を負い、全治6ヵ月と診断された〔尾亦弘友希選手の負傷について セレッソ大阪 (2008年8月12日)〕。2009年シーズン終盤に復帰。2010年は負傷離脱中に台頭した石神直哉からポジションを奪い返し、序盤はレギュラーとして出場していたが、W杯中断期間に負傷して以降は丸橋祐介にポジションを奪われ、リーグ戦の出場は無かった。2011年は自ら希望して背番号をプロ入り時と同じ32に変更〔『Jリーグカラー名鑑 2011年 3/4号』 ベースボール・マガジン社、2011年2月 〕。巻き返しを図り、自身初のACL出場も果たしたが、レギュラーを奪回するまでには至らず、同年限りでC大阪を退団した。
2012年よりJ2アビスパ福岡へ完全移籍〔尾亦弘友希選手 アビスパ福岡へ完全移籍のお知らせ セレッソ大阪 (2012年1月6日)〕〔尾亦 弘友希 選手 セレッソ大阪より完全移籍加入のお知らせ アビスパ福岡 (2012年1月6日)〕。サイドからのクロスによるチャンスメイクは健在で攻守に貢献していたが〔福岡は尾亦がクロスで2点演出、愛媛の猛攻を耐えて4試合ぶり勝利 ゲキサカ (2013年6月23日)〕、契約満了により2013年シーズン終了後に退団。その後現役続行を模索していたが、2014年3月に自身のブログで現役引退を表明した。
2014年4月より古巣FC東京の普及部コーチを務める〔尾亦弘友希選手 現役引退 および FC東京普及部コーチ就任のお知らせ アビスパ福岡 (2014年4月3日)〕。
2015年、AC長野パルセイロのキャンプに練習生として参加したが契約には至らず、7月に東京都リーグ3部のCORAZONマタドールで選手復帰。
2016年、東京都リーグ2部の南葛SCにコーチ兼任で加入する〔南葛SC TOPチームでは2016年度より尾亦弘友希氏とヘッドコーチ兼選手として契約を行いました事をお知らせします。 南葛SC (2015年12月21日)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「尾亦弘友希」の詳細全文を読む




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