翻訳と辞書
Words near each other
・ 小川信治
・ 小川信用金庫
・ 小川信行
・ 小川信雄
・ 小川信雄 (実業家)
・ 小川修三
・ 小川修司
・ 小川修平
・ 小川停車場線
・ 小川健太
小川健太郎
・ 小川元
・ 小川元 (スケートボーダー)
・ 小川元湯温泉
・ 小川光明
・ 小川光暘
・ 小川光樹
・ 小川光氏
・ 小川八起
・ 小川公一


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

小川健太郎 : ミニ英和和英辞書
小川健太郎[おがわ けんたろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小川 : [おがわ]
 【名詞】 1. streamlet 2. brook 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [けん]
 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness 

小川健太郎 : ウィキペディア日本語版
小川健太郎[おがわ けんたろう]

小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - 1995年10月8日)は、福岡県久留米市出身のプロ野球選手中日ドラゴンズエースとして活躍した投手である。
==来歴・人物==
明善高校を卒業し、1954年東映フライヤーズの入団テストを受けて入団。しかし一軍登板のないまま、2年で自由契約となる。
東映退団後、照国海運の野球部(軟式野球チーム)を経て、1956年からリッカーの野球部に所属。主力投手として1957年都市対抗野球南関東大会準優勝に貢献〔中村素至、50ページ。〕。ここで一度野球を諦めて学研の一般社員となり、遊びで週末に草野球をする程度という日々をしばらく送る〔中村素至、51ページ。〕。しかし知人の誘いを受けて本格的な野球を再開し、電気化学工業の野球部(硬式)を経て1958年立正佼成会の野球部(準硬式野球、チームは1961年に硬式に移行)に所属〔中村素至、54-55ページ。〕。1959年に国体の準硬式野球で優勝〔中村素至、55ページ。〕、
1962年都市対抗日本ビールの補強選手として初出場。1回戦で電電近畿を相手に先発、電電近畿のエース永易将之との投げ合いとなる。小川は9回から角谷隆らに継投、電電近畿は永易が投げ続け、延長22回まで共に無得点のまま進む。大会史上最長記録の熱戦となるが、太田誠電電東京から補強)のサヨナラ本塁打で日本ビールがこの試合を制した。この大会は準々決勝で日通名古屋に敗退。翌1963年都市対抗にも熊谷組の補強選手として出場する〔中村素至、65-66ページ。〕。立正佼成会のチームメートに黒江幸弘がいた。
1964年、中継ぎ投手陣の補強を急務としていた〔中村素至、70ページ。〕中日に入団。当時30歳、3人の男の子の父親になっていた。監督杉浦清と折り合いが悪く、シーズン当初は二軍暮らしだった〔中村素至、81ページ。〕。しかしチームの成績不振で杉浦が休養となり、代理監督に西沢道夫、ヘッドコーチに社会人時代の小川を知る坪内道典が就任〔中村素至、82ページ。〕すると小川は一軍に抜擢され、主に中継ぎで9試合に登板する。翌1965年当初から先発ローテーション入りし、17勝9敗の好成績を挙げて一躍エースの座に君臨する。特に1967年のシーズンは29勝12敗防御率2.51の好成績で最多勝利のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞した。本格派投手に贈られてきたこの賞が技巧派投手に贈られるのは大変珍しいことだった。
アンダースローの大きなバックスイングで投げる投球はコントロールもよく〔中村素至、90ページ。〕、伸びのあるストレート〔中村素至、88ページ。〕、大きなカーブ〔中村素至、85ページ。〕、シュート〔、「いったん浮かんでから沈む」と形容されたシンカー〔、スライダー〔などを持ち球とした。本来はアンダースローであるが時折サイドスローオーバースローで投げたり〔中村素至、20ページ。〕、素早い投球フォームから緩い球を投げ、逆に緩やかなフォームから速球を投げたりする〔中村素至、89ページ。〕などの工夫で打者を惑わせた。後述の背面投げもそうした工夫の一環である。このような個性的なピッチングスタイルは、バーベルやダンベルを使用したウエイトトレーニング〔中村素至、61ページ。〕〔中村素至、104ページ。〕や温水プールでの水泳〔など、当時の野球界では珍しかった先進的なトレーニングに支えられていた。
1969年6月15日、当時絶好調だった読売ジャイアンツ王貞治に対し、腕を背中から繰り出す「背面投げ」を行った。背面投げはこの1試合だけという俗説がある〔中村素至、15ページ。〕が、これは誤りで、同年の8月31日10月19日の試合でも王に対して背面投げを行っている〔中村素至、15-16ページ、38-39ページ。〕。小川は当時、王以外の左打者にも背面投げを「時々使う」と宣言していた〔中村素至、40ページ。〕が、実際には王にしか投げていない。
ギャンブル好きが高じ〔二宮清純『プロ野球「衝撃の昭和史」』、文藝春秋、2012年、ISBN 9784166608812〕、全盛期にあった5月6日、暴力団員と共謀してオートレース八百長を仕組んでいた容疑で逮捕される。6月3日野球協約の「統一契約書の不履行」を理由として〔中村素至、123ページ。〕永久失格処分を受け、二度とプロ野球のマウンドに戻ることはなかった。プロ野球での八百長(黒い霧事件)への関与疑惑もあったが、こちらは小川自身が法廷で否定している〔。引退後はスナック経営を経て名古屋市内の不動産会社に勤務、のちに東京に移動し、没するまで都内の不動産会社に勤務〔中村素至、133-134ページ。〕。晩年は頻繁にアマチュア野球の観戦に赴いていたという〔中村素至、136-137ページ。〕。
1995年10月8日死去。。葬儀・告別式は神奈川県藤沢市の湘和会堂六会で行われた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小川健太郎」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.