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将軍職 : ミニ英和和英辞書
将軍職[しょうぐんしょく]
(n) the shogunate
===========================
: [しょう]
 【名詞】 1. commander 2. general 3. leader 
将軍 : [しょうぐん]
 【名詞】 1. general 2. shogun 
将軍職 : [しょうぐんしょく]
 (n) the shogunate
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 
軍職 : [ぐんしょく]
 【名詞】 1. military profession 2. military post
: [しょしき, しょく]
  1. (n,n-suf) employment 
将軍職 ( リダイレクト:征夷大将軍 ) : ウィキペディア日本語版
征夷大将軍[せいいたいしょうぐん]

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷令外官の一つである。
「征夷」とは、東夷征討するという意味。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷西戎南蛮北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり〔同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。〕、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720年9月29日に任命された多治比縣守である〔養老4年9月28日に陸奥按察使上毛野廣人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。また同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河も任命された。〕。「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年12月7日に辞見した紀古佐美である〔紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。〕〔将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。〕。
延暦10年(790年7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使〔「征東大使」として、他に藤原継縄藤原小黒麻呂などの任命例もある。〕に任命された。延暦12年(792年2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(794年1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。
また「征夷大将軍」は「征夷」行為に関して現地の軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていった。鎌倉中期から明治維新まで、武人である武士が政権を握っていたことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は事実上の日本の最高権力者であった。また、天皇によって任命されることから、天皇には世俗的な実力はなくとも、権威は維持することとなった。
建久3年(1192年源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸時代末期まで約675年間にわたって征夷大将軍を長とする武家政権が続いたが、慶応3年(1867年徳川慶喜による大政奉還江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。
== 歴史 ==

=== 奈良・平安時代 ===

延暦10年(790年)「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、延暦13年(794年)1月1日に「征夷大将軍」として節刀を授けられた。大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年11月5日に征夷大将軍に昇格した。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定した。その後陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年4月17日に征夷将軍〔他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。〕に任命され、同年 閏12月11日蝦夷征討の終了を奏上、鎮守将軍には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年11月17日には再度文室綿麻呂が征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。
また、天慶3年(940年)に藤原忠文が、元暦元年(1184年)に源義仲〔義仲が「征夷大将軍」に任官したとする、『吾妻鏡』などを根拠とした従来の通説は誤りで、『玉葉』の伝える「征東大将軍」が正しい。〕が、征東(大)将軍に任じられているが蝦夷征討を目的としたものではない。
なお、征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍征夷軍監征夷軍曹、また征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)、征東軍監、征東軍曹などの役職が置かれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「征夷大将軍」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shogun 」があります。




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