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寺田陽介 : ミニ英和和英辞書
寺田陽介[てらた ようすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [よう]
  1. (adj-na,n-adv,n) way 2. manner 3. kind 4. sort 5. appearance 6. like 7. such as 8. so as to 9. in order to 10. so that 1 1. yang 1
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with

寺田陽介 : ウィキペディア日本語版
寺田陽介[てらた ようすけ]

寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手
== 来歴・人物 ==
博多工業から濃人渉が監督を務める日鉄二瀬を経て、1956年南海ホークスに入団していきなり一塁手のレギュラーを獲得する。
入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった。
当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの〔p.p.236~237
〕、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた〔福岡ソフトバンクホークス公式サイト2015年7月17日閲覧〕。
1961年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ)の第4戦、9回裏二死の場面で、この打者を抑えれば勝利だったが、代打藤尾茂の打ち上げた飛球を一塁手寺田が落球。このあと二死満塁となって迎えた宮本敏雄の打席で球審・円城寺満の判定をめぐるトラブルの後、宮本に適時打を打たれサヨナラ負けとなった。結果的にこれがシリーズの流れを変えてしまい巨人が優勝となり、まさに南海にとっても寺田にとっても痛恨の失策だった〔。
1962年に、半田春夫長谷川繁雄と共に、井上登との交換トレード中日ドラゴンズへ移籍(南海監督であった鶴岡一人は、「このまま南海にいたら、ヤジなどで苦しむ」と思ってトレードに出したと言っている〔p.p.102~103〕)、1964年山本久夫との交換トレードで、東映フライヤーズに移籍し、この年に引退した。
鶴岡によると、中日で1シーズンだけプレーしたあとに鶴岡のところにやってきて、「フライを捕るたびに、あのことを思い出します」と言って、選手を続ける自信を失っていたという〔。
引退後は完全に球界と絶縁同然の状態にあったが、1989年テレビ朝日で放送された両リーグ発足40年を記念したドキュメンタリー番組に落球事件の証言者として出演、久々に公の場に姿を見せた(当時石材加工業を営んでおり、仕事場で取材に答えていた)。また、南海OBを中心に運営されている少年野球チーム『ジュニアホークス』の選手がTBS筋肉番付」の「ストラックアウト」に挑戦した際も、同チームの関係者として登場していた。現在も同業(平尾石材店 )を続けている。
上記の落球事件が有名であるが、1956年8月14日の西鉄戦では、逆に寺田が打ち上げた凡フライを西鉄の関口清治が落球し、逆転打となった経験もある〔あのころ僕らは若かった(豊田泰光) スポニチアネックス2009年9月17日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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