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寒山寺 : ミニ英和和英辞書
寒山寺[かんざんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かん]
 【名詞】 1. midwinter 2. cold season 3. coldest days of the year
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
山寺 : [やまでら]
 【名詞】 1. mountain temple 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 

寒山寺 : ウィキペディア日本語版
寒山寺[かんざんじ]

寒山寺(かんざんじ、、)は、中国江蘇省蘇州市姑蘇区にある臨済宗仏教寺院。
蘇州の旧市街から西に約5キロメートル、蘇州駅南南西3キロメートルの土地にあり、寒山拾得の故事で名高い。楓橋路に面しており、唐代の詩人・張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊」(ふうきょう やはく)の石碑があることでも知られる。
== 沿革 ==

寒山寺は、南北朝時代(南朝)の天監年間(502年 - 519年)、武帝の時代に「妙利普院塔院」として創建されたとされる。寒山寺という現在の寺名は、唐代貞観年間(627年 - 649年)に風狂の人寒山がこの地で草庵を結んだという伝承にちなむとされる。襄陽出身の張継が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のことである。伽藍の創建は8世紀から9世紀にかけてのことであり、石頭希遷によると伝えられる。全盛期の寒山寺の面積は広大で、巷間で「馬に乗って山門を見る」と言われるほどであった。当時、北方から訪れた旅行者の多くは、まず寒山寺を参詣してから蘇州の市街に入ったという。
宋代太平興国初年(976年頃)には、節度使孫承祐によって7層の仏塔が建てられた。嘉祐年間(1056年 - 1063年)には「普明禅院」と名を改め、1134年紹興4年)に僧法選によって再建された。
宋以後は伽藍の盛況をみた寒山寺であったが、末の1366年至正26年)、張士誠朱元璋(のちの太祖洪武帝)の間の戦闘により焼失した。明初1369年洪武2年)に恵貞により再建されたが、そののち火災によって再び焼失。正統年間(1436年 - 1449年)に王況鐘が再建し、嘉靖年間(1522年 - 1566年)に本寂が鐘を鋳造している。しかし、明の1618年万暦46年)に再び火災に遭って堂宇は灰燼に帰した。
清代にも1711年康煕50年)、1860年咸豊10年)に焼失している。1860年の焼失は、太平天国の乱にともなうもので、1876年明治9年)に寒山寺を訪れた外務卿副島種臣は「楓橋夜泊」をもとに七言絶句パロディ月落烏啼霜満天、江楓夜泊転凄然、兵戈破却寒山寺、複無鐘声到客船。(月落ち烏啼いて霜天に満ち、江楓夜泊うたた凄然。兵戈破却す 寒山寺、また鐘声の客船に到る無し。)〕を創り、その巧みさは清の高官を驚かせている。
現在の寒山寺は、清末の1906年光緒32年)に程徳全が再建したものであり、それぞれの建物はいずれも比較的新しいものである。
西の黄色い照壁境内への入口となっており、中央に大雄宝殿、周囲に鐘楼、鐘房、羅漢堂、碑廊を配している。東側に寒拾殿、東端には普明宝塔があり、東西にやや細長い境内配置となっている。
日中戦争の戦火はまぬがれており、1940年日本映画支那の夜』の挿入歌『蘇州夜曲』〔作詞は西條八十、作曲は服部良一、歌は映画では李香蘭レコードでは霧島昇渡辺はま子であった。〕でも、寒山寺が登場する。
中華人民共和国成立後、2度にわたって大改修がおこなわれた。1982年には江蘇省人民政府により「江蘇省文物保護単位」に布告された。1986年には新しい鐘が寄贈され、2005年には重量108トンの大鐘が設けられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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