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宮城木道 : ミニ英和和英辞書
宮城木道[みやぎ, きゅうじょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

宮城 : [みやぎ, きゅうじょう]
 【名詞】 1. Imperial Palace 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 

宮城木道 ( リダイレクト:木道社 ) : ウィキペディア日本語版
木道社[もくどうしゃ]
木道社(もくどうしゃ)は、1882年明治15年)から1888年(明治21年)まで営業した、宮城県仙台区東六番丁(現・JR仙台駅東口)と同県宮城郡蒲生村(現・仙台港の南側)とを結んだ軌道、および、その事業者。「宮城木道社」「宮城木道」とも呼ばれる。開業当初の約9ヶ月間は人車軌道として、その後は馬車軌道として営業した〔『仙台市史 通史編6 近代1』 77頁〕。その名の通り、軌条鉄板をかぶせた木製だった。

== 路線 ==

* 始発:宮城県仙台区東六番丁13番地()
*:当時の南町通と東六番丁とが形成する十字路の北東角に位置した〔。現在、JR仙台駅によって南町通は仙台駅西口で終わり、東六番丁も仙台駅周辺では消滅しているため詳細な位置は不明だが、仙台市青葉区中央1丁目と宮城野区榴岡2丁目の境界辺り、BiVi仙台駅東口あるいは仙台トンネルへの移設前の旧・仙石線仙台駅付近にあった〔。
* 終着:宮城県宮城郡蒲生村()
*:現・仙台市宮城野区蒲生北荒田に位置し、旧・蒲生御蔵場の西側に面して設置された。
== 歴史 ==
明治初期の蒲生は東京と仙台を結ぶ海路の重要な拠点であったが蒲生から仙台までの陸路は非常に劣悪であり、滞貨もおびただしかった。また宮城県では野蒜築港をはじめとする道路や河川の土木事業がさかんにおこなわれており、蒲生 - 仙台間の輸送路の改良も課題となっていた。ここに馬車軌道を敷設する計画をたてたのは三岡丈夫〔明治5年15歳のときに父とともに渡米し、そのままボストンで過ごし明治9年にマサチューセッツ工科大学で採鉱学を学ぶ。明治11年に帰国して、一時高島炭鉱に就職する。明治18年には鉄道局に入り官吏の道に進む。三上一夫・舟澤茂樹『由利公正のすべて』新人物往来社、2001年、44頁〕である。三岡の父は由利公正であり由利もこの事業に関与していた〔『由利公正伝』によると仙台の寺木定芳は三岡が論じていた木道の話を聞いて仙台に木道を敷設しようと松平正直に内願し、会社設立の援助を由利に相談した。由利は小野善右衛門にその話をしたところ小野組と関係の深い仙台の商人古川良助の協力を得て、三岡を発起人として木道敷設を出願したという。〕。明治13年12月1日に宮城県に出願し〔「木道敷設の願」『仙台市史 資料編5』62-66頁〕、明治14年7月7日になり許可をうけた。そして8月に木道社が設立され資本金は33,000、社長は石部大三郎が就任し三岡丈夫は幹事となった。9月になると郵便報知新聞の記者だった原敬が宮城県まで由利をたずねて記事を書きこの事業を宣伝した〔明治14年12月14日付郵便報知新聞「原敬の馬車木道架設に関する所見」『仙台市史 資料編5』74頁〕。そして軌道の敷設工事がはじめられ、併せて蒲生村から大代村までの運河に船舶が常時航行できるように浚渫もおこなわれた。なお軌条は角材の上部に鉄板を張ったものであり〔「木道社の御難」明治15年4月12日付仙台絵入『新聞集成明治編年史5』62頁 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、鉄製より耐久性や強度は格段におちるが、輸入品の鉄製より廉価であった。木道は茅沼炭鉱軌道藤枝焼津間軌道でも使用された。明治15年2月に竣工し〔「2月19日由利公正始め社員数名と県官数名が馬車に乗り込み仙台から蒲生まで1時間かけて試運転し25日に開道式を行った」「宮城県の木道工事」明治15年2月27日付東京日日新聞『新聞集成明治編年史5』38頁 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕3月20日開業を許可され〔『宮城県史 5』678頁〕人車による営業を開始し〔〔『仙台市史 資料編5』には開業時期についての史料がないため、なぜ馬車運行が延期されたかは不明。同書「木道線路為換(かわせ)道敷設願」75 - 76頁にも「明治15年12月中開業御許可相成..」とあり3月開業についてふれていない。〕12月20日〔「開業御届」『宮城県公文書館企画展図録集1』4頁〕から馬車の運行を開始した。
営業期間中のことは不明な点が多いが、明治16年7月より18年12月までの2年半の純益金は3250円で1年あたり1300円弱であった〔「西村土木課長へ御回答」『仙台市史 資料編5』79頁〕。また伊予鉄道創業者の小林信近は松山での軽便鉄道建設にあたりこの木道社について調べていたという。
木道社の終末は日本鉄道により上野-塩竈間が開通したことによる。この開通に先立ち将来の経営に危機感をもった経営陣は明治19年に県に買上を願い出た。そこで県知事の松平正直は日本鉄道に買い上げるよう要請したがまとまらなかった。ついに明治21年3月20日の株主総会において31日の廃業を決議し、会社を清算することになった〔「仙台木道社解散」明治21年3月24日付朝野新聞『新聞集成明治編年史7』41頁 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。
== 路線と運転 ==
距離は2.5里ないし3里。貨物専用で1日2往復した。単線で当初は交換設備がなかったが、支障がでたため設備を追加した。
車両は詳細不明だが、「木道敷設の願」に馬車5両、馬5頭、『由利公正伝』では貨車25台と記載している。
== 脚注 ==

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木道社」の詳細全文を読む




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