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宣徳王 : ウィキペディア日本語版
宣徳王[せんとくおう]

宣徳王(せんとくおう、生年不詳 - 785年)は新羅の第37代の王(在位 : 780年 - 785年)であり、姓は金、は良相〔『三国遺事』王暦では諱を亮相とする。〕。第17代奈勿尼師今の十世孫であり、『三国史記』新羅本紀・宣徳王紀に拠れば、父は海飡(4等官の波珍飡、別名海干の混同か)の金孝芳、母は第34代聖徳王の娘の夫人。それぞれ即位後に追封して開聖大王、貞懿太后とした。王妃は角干(1等官)の良品の娘の具足夫人。『三国遺事』王暦においては、祖父を元訓角干、父を孝方海干(4等官)、母を四召夫人、王妃を狼品角干の娘の具足王后とする。
780年4月に先代の恵恭王を殺して王位に就いた。宣徳王以降を新羅の下代といい〔『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記される区分に基づく。始祖から真徳女王までを上代、武烈王から恵恭王までを中代、宣徳王から末王・敬順王までを下代とする。〕、王都での反乱が続き、王位簒奪が繰り返されることとなった。
== 即位まで ==
恵恭王の10年(774年)9月に伊飡(2等官)の位で上大等に任命された。当時の新羅の貴族の間では、王の下で律令訂正を推進しようとする党派と、王権を抑えて中央貴族連合体制に復帰しようとする党派とで争いを繰り返しており、769年の貴族連合派の反乱、770年の律令派の反乱が平定されたところであった。良相が上大等に着任した後にも775年6月・8月に貴族連合派の反乱が起こっており、鎮圧されてもいる〔ただし775年8月の反乱については律令派によるものとも見られ、評価は一定していない。詳しくは恵恭王の項目を参照。〕。王権が伸張したために抑えられがちにあったとはいえ、上大等の立場は貴族連合を代表するものであり、良相はこうした立場から777年4月には王に政治批判の上書を行なった。恵恭王は貴族連合派に配慮する形で、王族から金周元を侍中に任命して律令派と貴族派との提携を図ったが、780年2月に再び貴族の反乱が起こって王宮を包囲することになった。この反乱に対して良相は伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、反乱を平定するとともに恵恭王までも殺害し、自ら王位に立つこととなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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