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安藤昌益 : ミニ英和和英辞書
安藤昌益[あんどう しょうえき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [やく, えき]
  1. (n,n-suf,vs) gain 2. benefit 3. profit 4. use 5. advantage 6. being beneficial (useful, profitable, valuable)

安藤昌益 : ウィキペディア日本語版
安藤昌益[あんどう しょうえき]

安藤 昌益(あんどう しょうえき、1703年元禄16年) - 1762年11月29日宝暦12年10月14日))は、江戸時代中期の医師思想家哲学家無神論者反儒教論者秋田藩出身。号は確龍堂良中。思想的には無神論アナキズムの要素を持ち、農業を中心とした無階級社会を理想とした。死後、近代の日本において、社会主義共産主義無政府主義にも通じる思想を持った人物として評価された。
== 生涯 ==
出羽国秋田郡二井田村下村(現在の秋田県大館市二井田)の豪農の家に生まれ、同地で没した。長男ではなく利発であったことから、元服前後に京都に上り、仏門に入り禅を学んだ(寺は妙心寺)と言われている。北野天満宮で修業をした事実もある。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、どういう伝手かは不明だが医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世方別派に属する医師である。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚し子ももうけている。
陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1744年)8月の八戸藩の日記〔藩の公用日記『八戸藩日記』〕には、櫛引八幡宮流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。延享2年(1745年)領主層を対象とした政治の書『暦大意』を執筆した。しかし、昌益は一介の町医者であり町人身分に過ぎないが。その中で「民苦しみ穀種絶つときは、則ち国亡ぶ。国亡ぶる則は、国主自ら減却ぞ。罰恥百世に殆す者也」(『暦大意』<歳変>)と不仁の領主を厳しく非難している〔若尾政希、2004年、247ページ〕。
同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757年)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽国大館に帰郷。弟子の神山仙庵は八戸藩主の側医。
昌益の大著『自然真営道』は宝暦3年(1753年)に刊行された。門人仙庵の序から昌益の学派は、社会的反響について最新の警戒を持っていたことが知られる〔丸山眞男「付章2 安藤昌益」(1945年度講義・第12章)『丸山真男講義録 第1冊 日本政治思想史 1948』東京大学出版会、1998年、252ページ〕。
宝暦6年(1756年)9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった(八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため)。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち(真栄道の弟子)が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻って60歳で病死した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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