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孝荘文皇后 : ミニ英和和英辞書
孝荘文皇后[こうそうぶんこうごう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
皇后 : [こうごう]
 【名詞】 1. (Japanese) empress 2. queen 
: [きさき]
 【名詞】 1. empress 2. queen

孝荘文皇后 : ウィキペディア日本語版
孝荘文皇后[こうそうぶんこうごう]

孝荘文皇后満州語:、転写:hiyoošungga ambalinggū genggiyen šu hūwangheo、こうそうぶんこうごう、1613年3月28日 - 1688年)は、の2代皇帝ホンタイジの側妃の一人。ホンタイジの皇后孝端文皇后の姪で、3代皇帝順治帝の生母、4代皇帝康熙帝の祖母である。姓はボルジギン(博爾済吉特)氏、名はブムブタイ(Bumbutai、中国語表記:布木布泰、あるいは本布泰)。モンゴルホルチン部の首領ジャイサン(Jaisang、寨桑)の次女。
== 生い立ち ==
ブムブタイは万暦41年2月8日(1613年3月28日)に生まれた。天命10年(1625年)、13歳の時に、ヌルハチの第8子ホンタイジの側室となった。これより以前、彼女の叔母に当たるジェルジェル(Jerjer、哲哲、孝端文皇后)が正妻となっていた。翌年、ホンタイジがハン位を継承した。天聡3年(1629年)、ブムブタイは長女ヤトゥ(Yatu、雅図、後の固倫雍穆公主)を出産、天聡6年(1632年)には次女アトゥ(Atu、阿図、後の固倫淑慧公主)を出産、翌年には三女・固倫端献公主を出産した。天聡8年(1634年)には彼女の姉のハルジョル(海蘭珠)が嫁いだため、ホンタイジにはボルジギン氏より3人の女性を娶ることとなった。崇徳元年(1636年)、ホンタイジは皇帝位を称し改元、ブムブタイは永福宮荘妃(hūturingga booi jingji fujin)に封じられた。崇徳3年(1639年)、ホンタイジの第9皇子フリン(Fulin、福臨、順治帝)を出産した。
崇徳8年(1643年)、ホンタイジが死去したため、皇位継承を巡り一族内で対立が発生した。ホンタイジの異母弟ドルゴンはフリンを擁立し、ブムブタイは皇太后となった。同年2月には尊号を昭聖慈寿皇太后(genggiyen enduringge gosingga jalafun hūwang taiheo)とし、同年8月には昭聖慈寿恭簡皇太后(genggiyen enduringge gosingga jalafun gungnecuke boljonggo hūwang taiheo)となった。順治11年(1654年)には皇太后の父親は和碩忠親王に、母親は賢妃に封じられた。順治13年(1656年)12月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶皇太后に尊号が加えられた。
順治18年(1661年)、順治帝が逝去後、第3皇子に当たる玄燁(康熙帝)が即位したことにより太皇太后と呼ばれるようになった。康熙元年(1662年)、昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵太皇太后(genggin enduringge,gosingga jalafun,gungnecuke boljonggo,nesuken fujurungga,iletu huturingga,ujen fulehun tai hūwang taiheo)に尊号が加えられた。康熙4年(1664年)9月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘太皇太后に、康熙6年11月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和太皇太后に、康熙15年正月には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和仁宣太皇太后(genggiyen enduringge,gosingga jalafun,gunggecuke boljonggo,nesuken fujurungga,iletu hūturingga,ujen fulehun,nemegiyen ambalinggū,elhe hūwaliyasun,gosin algika tai hūwang taiheo)に、康熙20年(1681年)には昭聖慈寿恭簡安懿章慶敦恵温荘康和仁宣弘靖太皇太后と尊号が加えられた。
康熙26年12月25日(1688年1月27日)、死去した。享年75。康熙帝は、危篤時の太皇太后の発言により、彼女を順治帝が埋葬されている孝陵付近に埋葬した。翌27年10月には孝荘仁宣誠憲恭懿至徳徽翊天啓聖文皇后と諡号を贈った。雍正帝は、雍正3年(1725年)12月に彼女の棺を別のところに移し、そこをとした。乾隆帝は、乾隆元年(1736年)3月に彼女に孝荘仁宣誠憲恭懿至徳純徽翊天啓聖文皇后と諡号を贈った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「孝荘文皇后」の詳細全文を読む




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