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婁昭君 : ウィキペディア日本語版
婁昭君[ろう しょうくん]
婁 昭君(ろう しょうくん、501年 - 562年)は、東魏の権臣高歓の妻。北斉に革まると皇太后に立てられた。諡号武明皇后
==経歴==
婁内干の娘として生まれた。城上執役にあった高歓を見初めて、「これが真にわが夫なり」といい、私財を幾度か使って招き、父母もやむをえず婚姻を許した。高歓が豪傑たちと交友し、ひそかに策謀を練るにあたって、婁昭君はいつも参加していた。高歓が渤海王となると、婁昭君は渤海王妃となった。
婁昭君は明晰で決断のはっきりした人物であった。また倹約を尊び、内外の往来にあたっても侍従は10人を越えなかった。高歓が西征に出ていたとき、婁昭君が夜半に一男一女を産み、危篤に陥った。側近たちは高歓に危急を知らせようとしたが、婁昭君は「王は大兵を統べておられ、どうして私のために軽々しく軍幕を離れることができましょう。死生は運命です。来たところで何ができましょう」と言って止めた。高歓は後にこのことを聞いて、感嘆した。537年沙苑の戦いで高歓が敗れると、侯景が精鋭の騎兵2万があれば失地を恢復できると述べた。高歓は喜んで婁昭君にそのことを相談すると、婁昭君は「もしその言葉の通りにすれば、帰還する道理がなく、あたら侯景を失うこととなりましょう。なんの利益もありません」と言って止めた。高歓は柔然可汗阿那瓌の娘をめとりたいと考えていたが、決断を下していなかった。婁昭君は「国家の大計は逡巡してはいけません」といった。柔然の公主(蠕蠕公主)がやってくると、婁昭君は自ら正室の座を降りて、公主を高歓の正室に立てさせた。高歓はこのことで婁昭君に拝謝した。
婁昭君は同腹異腹にかかわらず高歓の諸子をいつくしみ、自ら機織りして諸子に袍衣を与えた。また戎服を手縫いして、将軍や側近たちに与えた。弟の婁昭は功績を挙げて栄達したが、その他の親族には爵位を請求したことがなかった。婁昭君はいつも人材を適材適所に用いて、公私混同することのないように諫めていた。547年高澄が渤海王位を嗣ぐと、婁昭君は太妃に進んだ。高洋(文宣帝)が東魏から帝位の禅譲を受けようとすると、婁昭君は固く反対した。
550年、北斉に革まると婁昭君は皇太后に立てられ、宣訓宮と称された。559年高殷(廃帝)が即位すると太皇太后となった。尚書令楊愔らが文宣帝の遺詔を受けて輔政にあたり、宗室の諸王に憎まれた。婁昭君は常山王高演(孝昭帝)らとはかって楊愔を殺害し、廃立の令を下した。560年8月、高演が即位すると、再び皇太后となった。561年11月、高演が死去すると、長広王高湛(武成帝)を立てた。562年春、病に伏せると、巫媼の言を用いて石氏に改姓した。4月辛丑、の北宮で死去した。享年62であった。5月甲申、義平陵に合葬された。
婁昭君の死の直前、「九龍の母が死して孝をなさず」という童謡が世間で歌われたとされる。婁昭君が死去したとき、武成帝は喪服を着けず緋袍のままであり、まもなく三台に登り酒を置いて音楽を鳴らさせた。武成帝の娘が白袍を進めたところ、武成帝は怒って白袍を台の下に投げ落とした。和士開が音楽を止めるよう上奏したが、武成帝は怒って彼を鞭打った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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