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奥山政敬 : ミニ英和和英辞書
奥山政敬[おくやま まさよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 
奥山 : [おくやま]
 【名詞】 1. remote mountain 2. mountain recesses 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

奥山政敬 : ウィキペディア日本語版
奥山政敬[おくやま まさよし]

奥山 政敬(おくやま まさよし〔衆議院・参議院。〕、1845年4月16日弘化2年3月10日) - 1916年大正5年)7月18日)は明治時代日本司法官文部官僚。旧薩摩藩士。官立大阪英語学校京都大学の前身の一つ)および官立大阪師範学校の校長、松山・名古屋・大阪の地方裁判所長、広島控訴院長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの名は嘉一郎『大阪中学校一覧 明治十四年十五年』、2頁 。〕。
== 来歴 ==
弘化2年3月10日1845年4月16日)、薩摩藩士奥山政恒の次男として生まれる〔古林。〕。大阪で何礼之に学んだのち〔許海華 「長崎唐通事何礼之の英語習得 」(『関西大学東西学術研究所紀要』第44号、2011年4月、)314頁。〕、明治2年(1869年)に大学少得業生兼少寮長に就任し、翌明治3年(1870年)、大得業生兼大舎長に進んだ〔。同年9月には大学出仕となり、翌10月から大阪開成所分局・理学所の管理者を務めている〔『特定研究「日本近代化」資料 任解日録』 東京教育大学特定研究「日本近代化」研究組織、1970年4月、130頁。前掲 『大阪中学校一覧 明治十四年十五年』、2頁。〕。明治4年(1871年)7月に文部省が設置されると文部省出仕(のち文部省七等出仕)となり、本省に勤務〔倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、269-271頁。明治5年2月11日文部省達(内閣記録局編輯 『法規分類大全第一編 官職門十四』 1891年2月、62頁 )。〕。翌年9月に出仕を免ぜられたが、11月には再び文部省七等出仕となり、第四大学区第一番中学の学長に就任した〔『太政官日誌』明治5年第69号、2丁表-裏 同誌明治5年第106号、6頁
京都大学百年史編集委員会編 『京都大学百年史 資料編3』 京都大学教育研究振興財団、2001年3月、759頁 。〕。明治6年(1873年)4月に校名が第三大学区第一番中学と改められ、さらに同月に開明学校、翌年4月に大阪外国語学校、同10月に大阪英語学校と移り変わる中、出仕を免ぜられる明治8年(1875年)10月まで校長として在職〔『太政官日誌』明治8年第127号、2頁 。前掲京都大学百年史編集委員会、759-760頁。〕。この間、明治6年8月に設けられた大阪師範学校の校長も明治8年3月まで兼務した〔橋本美保著 『明治初期におけるアメリカ教育情報受容の研究』 風間書房、1998年3月、ISBN 475991076X、199頁。〕。
免出仕後は裁判官に転じ、明治9年(1876年)3月に七等判事に就任(翌年6月、判事に更任)。東京裁判所在勤となった〔『太政官日誌』明治9年第38号、9頁 。『東京日日新聞』第1680号、1877年7月10日、1面。『司法省日誌』明治9年第33号、19頁 。〕。明治13年(1880年)11月からは松山裁判所長(のち松山始審裁判所長)を務め、明治17年(1884年)12月に大審院在勤(のち大審院評定官に更任)となったのち、明治23年(1890年)8月から名古屋始審裁判所長を、同年10月から大阪地方裁判所長を務めた〔井尻常吉編纂 『歴代顕官録』 朝陽会、1925年12月、672頁 『官報』第447号、1884年12月22日、6頁 同誌第856号、1886年5月12日、115頁 同誌第2137号、1890年8月13日、151頁 同誌第2205号、1890年11月4日、24頁 。〕。明治24年(1891年)12月、函館控訴院検事長に転じ、大審院検事、広島控訴院検事長を経て明治26年(1893年)12月に広島控訴院長に就任〔『官報』第2551号、1892年1月4日、8頁 同誌第2691号、1892年6月18日、178頁 同誌第2766号、1892年9月14日、133頁 同誌第3154号、1894年1月6日、18頁 。〕。明治34年(1901年)5月には貴族院議員に勅選され、翌6月に判事を退職した〔『官報』第5372号、1901年6月1日、18頁 同誌第5381号、1901年6月12日、211頁 。〕。
退職後は貴族院議員のほか、田川炭鉱株式会社取締役社長を務めた〔。大正5年(1916年7月18日東京小石川御殿山の自邸で死去〔稲村ほか。〕。妻・乙女子は洋学者市川兼恭の次女〔武藤。〕。長男・嘉一は朝鮮総督府技師、長女・暦子は台湾総督府事務官山田寅之助夫人、次女・アイ子は法学者仁井田益太郎夫人、三女・ゆき子は文部官僚田所美治夫人、次男・五六は陸軍軍人〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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