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大隈綾子 : ミニ英和和英辞書
大隈綾子[おおくま あやこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あや]
 【名詞】 1. (1) figure 2. design 3. (2) twill weave 4. pattern of diagonal stripes
綾子 : [りんず]
 (n) figured satin
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

大隈綾子 : ウィキペディア日本語版
大隈綾子[おおくま あやこ]

大隈 綾子(おおくま あやこ、1850年嘉永3年10月)〔『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929〕 - 1923年大正12年)4月28日デジタル版 日本人名大辞典+Plus 〕)は、大隈重信の2番目の妻。50年以上に渡って、夫を助け賢妻の誉れ高かった〔〔『大隈侯一言一行』市島謙吉(早稲田大学出版部, 1922) 〕。江藤新作小栗忠順の遺児である国子を育てたことでも知られる。旧姓は三枝。兄に小倉鉄道取締役三枝守富〔美術人名辞典〕。いとこに小栗忠順近現代系図ワールド〕。
== 略歴 ==
1850年(嘉永3年)、800石取りの旗本・三枝七四郎の次女として江戸に生まれる〔『人間大隈重信』 五来欣造、早稲田大学出版部, 1938〕。幼少時には兄・守富とともに親族である駿河台小栗家に同居していた。〔『寛政譜以降旗本家百科事典』小川恭一編, 1997 1163頁 〕〔明治維新によって実家が困窮し、のちに井上馨の妻となる同じく士族の岩松武子とともに茶屋奉公をしていたとも言われている〔『老記者の思ひ出』 朝比奈知泉、中央公論社, 1938〕(小僧時代に修業先で三枝家を見知っていた高村光雲はこれを否定している〔)。このころまでに父親を亡くしている〔 高村光雲〕。18歳のとき、神田和泉橋の老舗の糸屋「辻屋」の次男で大工棟梁の養子になっていた柏木貨一郎という資産家の美男子と縁組したが、結婚しても夫婦間が疎遠で、そのままほどなく離縁となる〔。1869年明治2年)、20歳で大隈重信と結婚(大隈も再婚)。結婚後は常に大隈に付き添い、生涯仲睦まじい夫婦として知られた〔キャンパスがミュージアム Vol.2 大隈庭園編 早稲田大学文化推進部〕。
綾子は見掛けは無口で控え目だが、度量が大きく、几帳面〔、気前がよく、義侠心に富み、負けず嫌い〔。非常に行儀がよく、寝台列車でも寝ずに椅子に座って過ごすほどで、その気丈な性格から、下の者からは気難しいわがまま者と見られていた〔。家内では大隈も逆らえないかかあ天下で、「大隈を一人にすると失敗する」と言って、常に同行し、大隈から「うちの番頭」と呼ばれ信頼されていた〔。早稲田一帯の土地を購入したのも綾子の独断だった〔。人に贈り物をしたり、もてなしたり派手なことが大好きで金に糸目をつけず社交に熱心だった〔。大園遊会をしばしば開き、自分たちは大邸宅の十畳二間の居間に暮らし、他はすべて客に提供するなど、「世界の客間」と呼ばれるほどだった〔。
明治十四年の政変で大隈が参議を免官となると、経済的に困窮したが、節約と土地の売り喰いで大隈を支えた〔。1889年(明治22年)に大隈が襲撃され、片足の切断手術の際にも毅然として対処し、大隈の杖となって献身的に支えた〔『当世活人画 : 一名・名士と閨秀』 佐瀬得三 (儘世) 著 (春陽堂, 1900)〕。1893年(明治26年)には、雲照が始めた夫人正法会の機関誌『法の母」の発起人に、毛利安子(公爵毛利元徳夫人)、蜂須賀随子(侯爵蜂須賀茂韶夫人)、井上武子(伯爵井上馨夫人)らとともに参加〔『真宗史仏敎史の研究』柏原祐泉、平楽寺書店, 2000〕。
1896年(明治29年)、大隈は尾崎行雄から第2次松方内閣組閣への参加を頼まれたが、松方らの無能ぶりに呆れ、断った。これを尾崎が綾子に進言したところ、「私に任せてください」と奥へ行ってしばらくすると、「大隈が承諾しました」と戻ってきた。大隈は一度言い出したら人の言うことを聞く人間ではないのを知っていた尾崎は、綾子の「魔力」に驚いたという〔松方正義公 『近代快傑録』尾崎行雄、千倉書房, 1934〕。1901年(明治34年)には愛国婦人会の発起人の一人となる〔近代日本における女子通信初等・中等教育の推移と社会的役割 総合科学研究第8号、名古屋女子大学総合科学研究所、2014年(平成26年)5月〕。
大隈が政界を引退すると再び経済的に困窮し、1909年(明治42年)には町田忠治らの手で資産の大整理が行なわれ、昔世話をし成功した者たちから寄付を集めて暮らした〔。1922年(大正11年)に大隈が亡くなると、大隈邸の東側に新宅を建て、大隈英麿と離縁した熊子と閑居。綾子は熊子を非常に頼りとし、熊子も気難しい養母によく尽くした〔。翌年、大隈のあとを追うように没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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