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大聖ゲルトルード : ミニ英和和英辞書
大聖ゲルトルード[たいせい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大聖 : [たいせい]
 (n) great sage
: [ひじり, せい]
  1. (pref) saint 2. st.
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

大聖ゲルトルード ( リダイレクト:ヘルフタのゲルトルード ) : ウィキペディア日本語版
ヘルフタのゲルトルード[ちょうおん]

ヘルフタの聖ゲルトルードまたは大聖ゲルトルード(ドイツ名:Gertrud von Helfta; Gertrud die Große; 1256年1月6日 - 1301年/1302年)は、ドイツベネディクト会修道女で、神秘家神学者である。カトリック教会聖人であり、11月16日がその祝日として、カトリック教会の教会暦には記録されている。
== 生涯 ==
ゲルトルードの幼少時代はほとんど知られていない。ゲルトルードは1256年、「主の公現の祝日」である1月6日、当時神聖ローマ帝国の領域であったテューリンゲンアイスレーベンで生まれた。
両親や家族については何もわかっておらず、両親の名前すら不明である。なお、アイスレーベン付近では生まれていないとする文書もある〔Catholic Encyclopedia New Advent St.Gertrude the Great 〕。
このことについて、ゲルトルード自身はその著作の中で、自分の出生が分からないことについては、自分が観た幻視の中でイエス・キリストが現われ、キリストの意思によりそうなったことを示したと書いている〔カトリック中央協議会 教皇ベネディクト十六世の241回目の一般謁見演説 〕。4歳のとき〔ゲルトルードの伝記著者は、"彼女の5年目に"、と書き表しており、これを"彼女が5歳の時"とするいくつかの誤解を招いた。 Alexandra Barrett Alexandra Barrett, 'Introduction', in Gertrud the Great of Helfta, The Herald of God's Loving-Kindness: Books One and Two, (Kalamazoo, 1991), p10〕、彼女はヘルフタの聖マリア修道院内に併設された学校に入った(この修道院がベネディクト会またはシトー会とするのが良いのかという議論がよく語られる〔
これは20世紀のゲルトルード研究におけるいくつかの競合点であった。最適の回答は、厳密にいえば、ヘルフタはベネディクト会の修道院であるが、シトー会の改革に強く影響されていた。というものである。このことは、当時の修道者たちの間ではこの部分が明確に区分されていないことに影響している。ヘルフタは、他の多くの聖ベネディクトの戒律に従う女子修道院と同じく、シトー会の秩序に大変影響されていた。そして実際、シトー会の秩序を取り入れたハルバーシュタット(Halberstadt)からの修道女のグループによって1258年に設立されている。しかし、1228年のシトー会の総集会がそれ以上の修道女を自分たちの会派に受け入れることを禁じたので、公式にはシトー会修道女とはなれずにいたのだった。その理由は、修道士たちにとって自分たちが面倒を見る修道女の数が、既に負担しきれないものとなっていたからであった。ヘルフタはそれゆえ、公式にはシトー会とはなることができなかったのである。にもかかわらず、ヘルフタの秩序はシトー会の秩序であるように見受けられるのは明らかで聖ベルナルドの作品は、確かにヘルフタの影響力を大変強く受けている。この修道女たちが着ていたのが、黒いベネディクト会の修道服か、白いシトー会の修道服かは明らかではない。しかし、ゲルトルードとメヒティルトがほぼ一般的に黒い修道服で描かれることに注目すると興味深い。この修道会の霊的指導者は、ベネディクト会でもハッケボルン・シトー会でもなく、ドミニコ会である。 Sr Maximilian Marnau 'Introduction', in Gertrude of Helfta, ''The Herald of Divine Love'', (New York: Paulist Press, 1993), p10; Caroline Bynum Walker, ''Jesus as Mother,'' (Berkeley and Los Angeles, 1982), pp174-5.
〕)。
ゲルトルードは並外れた生徒で、当時教えられた3学4科から学び得る全てを学んだ。学問に心を引き付けられ、熱心に根気よく世俗的な勉学に打ち込み、周囲の期待をはるかに上回る成績を上げたという。特に文学、音楽、歌、細密画が彼女の心を捕えた〔。学生時代のゲルトルードは、強く、はきはきし、気短かで、向う見ずな性格であり、自分自身でしばしば怠惰だったと自身で述べている。後に自分の欠点を認め、謙虚にゆるしを願い、へりくだりのうちに助言と回心のための祈りを求めたという。ただし、ゲルトルードの気性と欠点は最後まで変わらず、なぜイエス・キリストが彼女をそれほどまでに愛されるのか、不思議がったという者もいたとする話がある〔。
そしてゲルトルードは、ここの修道院長の指導を受けた。ゲルトルードは敬虔な両親によって、子供の修道生活献身者として捧げられたものと推察される。ゲルトルードは、「神の愛の使者」の中で、彼女の両親はこの本の執筆時点のだいぶ前に死去していることを暗示している〔「神の愛の使者」第2分冊、16章〕。しかし、彼女は孤児として修道院併設の学校に入ることが可能であった。
ゲルトルードは、ハッケボルンの聖メヒティルトに預けられた。この人物は、修道院長であるハッケボルンのゲルトルードの妹である。1266年に、ゲルトルードは修道共同体での生活に入った〔Casanova, Gertrude. "St. Gertrude the Great." The Catholic Encyclopedia. Vol. 6. New York: Robert Appleton Company, 1909. 8 May 2013 〕。ゲルトルード自身の手で明らかに書かれているのは、この修道院で徹底した教育を受けたことである〔Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', in Gertrude of Helfta The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p6
〕。ゲルトルードは、修道生活に入って神に完全に自分を捧げた後、20年間は何も特別なことは起こらず、勉学と祈りに集中し、様々な分野で粘り強く教養を深め、同僚の中でも際立つ存在となった。しかし、1280年の待降節の間、彼女はこれらすべてのことに嫌気を覚え始め、空しさを感じたという〔。
1281年、25歳のとき、ゲルトルードは最初となる一連の幻視(ヴィジョン)を経験している〔これは「神の愛の使者」の1.1と2.1に描かれている。〕。ゲルトルードは1281年1月27日の終課時に、自分の心の闇を照らすものを感じ、自分を苦しめていた動揺が静められたように感じた。このときにゲルトルードは若者の姿を幻視している。この幻視の中の若者は、ゲルトルードを手で抱え、導き、彼女の魂を悩ませていた茨の垣根を乗り越えさせた。このときからゲルトルードは、イエス・キリストと深く一致した生活を送る。このイエス・キリストの一致は、待降節や復活節などの特に重要な典礼の季節に見られた〔。
このような幻視は、彼女の生涯を通じて続くことになる。このことによって、彼女の人生の進路が変わった。彼女は世俗的な知識から離れて、聖書神学の研究の方へと移行した。 ゲルトルードは、個人的な祈りと瞑想を強く献身的に行い、自分の修道院のシスターたちのためになる霊的論文を書き始めた〔。
ゲルトルートはこのときの回心を定義づけて「勉学」と「修道生活」という2つの方向性を示している。「勉学」においては世俗的な人文的学問から神学へ徹底的な移行し、「修道生活」においては自ら怠惰だった生活から、特別な宣教的情熱を伴う深く神秘的な祈りの生活へと移行した。この方向性により、ゲルトルードは外的な事物から内的生活、地上的関心から霊的な事柄への移行を果たした〔。
 
ゲルトルードは13世紀の偉大な神秘家の一人となった。彼女の友人であり教師であるハッケボルンの聖メヒティルトと共に、彼女は霊的に「婚姻神秘主義」を実践した。それは、彼女が自分自身をキリストの花嫁として見ることに至る〔Foley O.F.M., Leonard. ''Saint of the Day, Lives, Lessons, and Feast'', (revised by Pat McCloskey O.F.M.), Franciscan Media, ISBN 978-0-86716-887-7 〕。
ゲルトルードはヘルフタで1302年頃に死去した。彼女の祝日は11月16日に祝われる。しかし、正確な死亡日は判明していない。11月という日付は、修道院長であったハッケボルンのゲルトルートと混同したことに由来する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘルフタのゲルトルード」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gertrude the Great 」があります。




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