翻訳と辞書
Words near each other
・ クレルモン
・ クレルモンフェラン
・ クレルモン・オーヴェルニュ
・ クレルモン・フェラン
・ クレルモン・フット
・ クレルモン伯
・ クレルモン伯爵
・ クレルモン公会議
・ クレルモン教会会議
・ クレルモン=フェラン
クレルヴォーのベルナルドゥス
・ クレルヴォーのベルナール
・ クレルヴォ交響曲
・ クレル・モセット
・ クレレ誌
・ クレロー
・ クレローのパラメータ
・ クレローのパラメーター
・ クレローの公式
・ クレローの定数


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

クレルヴォーのベルナルドゥス : ミニ英和和英辞書
クレルヴォーのベルナルドゥス[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クレルヴォーのベルナルドゥス : ウィキペディア日本語版
クレルヴォーのベルナルドゥス[ちょうおん]

クレルヴォーのベルナルドゥスラテン語:Bernardus Claraevallensis, フランス語:Bernard de Clairvaux, 1090年 - 1153年8月21日)は、12世紀のフランス出身の神学者。すぐれた説教家としても有名である。フランス語読みでクレルヴォーのベルナール聖ベルナール)とも呼ばれる。
聖公会カトリック教会聖人であり、33人の教会博士のうちの一人でもある。教皇ピウス12世からは「甘蜜博士(Doctor Mellifluus)」の称号を贈られている。また第2回十字軍の勧誘に大きな役割を果たしたことでも知られる。
== 生涯 ==

=== 若き修道士 ===
ベルナルドゥスはフランスのディジョンに近いフォンテーヌで、騎士テセランの子として生まれた。母親アレトはモンバールの貴族の家の出で信仰厚く、教育熱心であったが、ベルナルドゥスが幼いうちに世を去った。家族はベルナルドゥスに軍人としてキャリアを積んでほしいと願っていたが、彼自身は母の姿の影響もあり、修道院に入りたいと思っていた。それならばと家族はベルナルドゥスをシャティヨン=シュル=セーヌへ送り、聖職者として出世するために必要な高等教育を受けさせることにした。しかし、彼は修道士として世俗と無縁の生活を送りたいという希望を決してあきらめず、ついに1112年シトー修道院に入ることができた。同修道院はモレスムスのロベルトゥス1098年に開いたものであった。ベルナルドゥスは念願の修道院に入るにあたり、自分だけでなく兄弟や親族、友人なども連れて修道院の門をたたいた。
同修道院はベネディクト会改革運動から出たシトー会によるものであったが、初期の熱意を失いつつあった。しかし、そこへ地域の名門一族からベルナルドゥスをはじめとする理想に燃えた若き入会者が一挙に30人も加わったことで、ベネディクト会のみならず西欧の修道制に大きな影響を与える修道院になっていく。シトー修道院は活気にあふれ、そこからさまざまな修道院が生まれていった。その中の一つに、トロワ伯ユーグから与えられたオーブの谷の一角に1115年に創設されたクレルヴォー修道院があった。院長には若きベルナルドゥスが任命された。このことから彼はクレルヴォーのベルナルドゥスと呼ばれることになる。
シトー会の新しい会則に従って作られたクレルヴォー修道院は、シトー会の中でも大きな影響力を持つようになっていく。形式的にはシトー修道院の子院であったが、実質は最重要修道院であった。それもこれもベルナルドゥスの名声と人格に負うところが大きかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クレルヴォーのベルナルドゥス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.