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クレルヴォ交響曲 : ミニ英和和英辞書
クレルヴォ交響曲[くれるう゛ぉこうきょうきょく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

交響 : [こうきょう]
 (n,vs) reverberation
交響曲 : [こうきょうきょく]
 【名詞】 1. symphony 
: [ひびき]
  1. (io) (n) echo 2. sound 3. reverberation 4. noise 
: [きょく, くせ]
 【名詞】 1. a habit (often a bad habit, i.e. vice) 2. peculiarity

クレルヴォ交響曲 : ウィキペディア日本語版
クレルヴォ交響曲[くれるう゛ぉこうきょうきょく]

クレルヴォまたはクッレルヴォ''Kullervo'')》作品7は、ジャン・シベリウスの初期の合唱付き管弦楽曲。楽章の配置や内部構成から見ると交響曲と呼びうる内容を持っており、「クレルヴォ交響曲''‘Kullervo''’-sinfonia」とする俗称ないしは通称が一般化している(日本では、促音を表記せず「クレルヴォ」とすることが一般的である。ただし下記においては、曲名以外の部分では、クッレルヴォと表記する。)が、シベリウス自身は譜面の題扉に「交響曲」の文字を記入しておらず、「独唱者と合唱管弦楽のための交響詩」との副題を添えていた。このような事情により、交響曲全集に収録されない場合がある。'Kullervo'')》作品7は、ジャン・シベリウスの初期の合唱付き管弦楽曲。楽章の配置や内部構成から見ると交響曲と呼びうる内容を持っており、「クレルヴォ交響曲''‘Kullervo''’-sinfonia」とする俗称ないしは通称が一般化している(日本では、促音を表記せず「クレルヴォ」とすることが一般的である。ただし下記においては、曲名以外の部分では、クッレルヴォと表記する。)が、シベリウス自身は譜面の題扉に「交響曲」の文字を記入しておらず、「独唱者と合唱管弦楽のための交響詩」との副題を添えていた。このような事情により、交響曲全集に収録されない場合がある。')》作品7は、ジャン・シベリウスの初期の合唱付き管弦楽曲。楽章の配置や内部構成から見ると交響曲と呼びうる内容を持っており、「クレルヴォ交響曲''‘Kullervo''’-sinfonia」とする俗称ないしは通称が一般化している(日本では、促音を表記せず「クレルヴォ」とすることが一般的である。ただし下記においては、曲名以外の部分では、クッレルヴォと表記する。)が、シベリウス自身は譜面の題扉に「交響曲」の文字を記入しておらず、「独唱者と合唱管弦楽のための交響詩」との副題を添えていた。このような事情により、交響曲全集に収録されない場合がある。
== 作曲の経緯と受容 ==
シベリウスは留学中の1891年ベルリンロベルト・カヤヌスの《アイノ交響曲》を聴いて感銘を受け、自らも真に愛国的な題材による大規模な管弦楽曲を作曲をしようと思い立つ。同年の春から留学先のウィーンで、叙事詩カレワラ』に基づく管弦楽曲の作曲に取り掛かり、結局これが《クレルヴォ交響曲》として結実することになった(それまでに作曲済みの部分は、ドイツ的であるとの理由から焼き捨ててしまったという)。作曲の過程に於いて、ウィーン音楽院における指導教授のローベルト・フックスカール・ゴルトマルクに講評を求めて酷評される一方で(ただしシベリウスは気落ちするどころか意地になって作曲を続けた)、ブルックナーの《交響曲 第3番》の上演に立会い、刺戟を受けている。またウィーンでは、ベートーヴェンの《交響曲 第9番》の上演にも接したものの、作曲者当人の弁によると、こちらからは何も得るものがなかったという。
当初は3~4楽章程度にする予定であったが、結局5楽章に落ち着いた。また、当初は50もの題材を考え出したものの、題材選びは入念にとのゴルトマルクの助言を容れて満足できるものに絞り込み、結局 『カレワラ』第35章~第36章の「クッレルヴォ」の物語にした。
1892年4月28日に作曲者自身の指揮によるヘルシンキ初演は、評論家筋からはおおむね好評だったものの、作品を撤収してしまう。これは、カール・フローディンのようなスウェーデン系フィンランド人の間では激賞され、オスカル・メリカントのようにフィン語を母語とする人からは判断を保留されたことも影響しているようだ。(一方で、フローディンは「次回作はレンミンカイネンを題材とする交響詩の創作を」シベリウスに奨めており、ゆくゆくはシベリウスがその実現に向けて動き出したということも、記憶に留めておくべきであろう。)
初期のシベリウスはブルックナーのような改訂癖があり、本作もいずれは改訂するつもりであったらしい。このため初演後は断片的な形で3回(そのうち1回はピアノ伴奏版で)上演されたのを数えるだけで、シベリウス没後の1958年に娘婿のユッシ・ヤラスが蘇演を指揮するまで、全曲演奏は行われなかった。最初の全曲録音は、1970年パーヴォ・ベルグルンドによって行われた。ベルグルンドは1985年にデジタル方式で再録音を行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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