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大竹英雄 : ミニ英和和英辞書
大竹英雄[おおたけ ひでお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 
英雄 : [えいゆう]
 【名詞】 1. hero 2. great man 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

大竹英雄 : ウィキペディア日本語版
大竹英雄[おおたけ ひでお]

大竹 英雄(おおたけ ひでお、1942年昭和17年)5月12日 - )は、囲碁棋士福岡県北九州市出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。名人位4期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など。碁聖位連続6期で名誉碁聖を名乗る。厚く味のよい形を好む本格的な棋風で大器、大竹美学と呼ばれる。布石では小目を好む。またNHK杯優勝5回など早碁を得意とし「早碁の神様」、名人戦では挑戦手合通算12回出場などで「名人戦男」などのニックネームを持つ。同年同月生まれでライバルでもある林海峰と並んで"竹林"とも称される。
2008年12月9日-2012年6月26日は日本棋院理事長、2010年から全日本囲碁連合の会長も務める。日本棋院の新旧タイトル保持者で作る名棋会の会長でもある。
==経歴==
7人兄弟の4番目として生まれ、小学2年の時に父の勤め先の八幡製鉄囲碁同好会を通じて囲碁を学ぶ。1951年9歳のときに、福岡県柳川市で行われた呉清源藤沢庫之助の対局の立ち会い人として来ていた木谷實と九子で試験碁を打って認められ、同年木谷門に入門、翌年日本棋院院生となる。1956年入段。
1957年に早碁トーナメント戦で初優勝するなど、若手棋戦で活躍。1961年五段、内弟子生活から独立する。1967年に日本棋院第一位決定戦坂田栄男に挑戦し、2勝1敗で初タイトルを取る。2連覇後に、これが発展した全日本第一位決定戦では、終了までの5期全てでタイトル者となった。1970年九段。
1975年に木谷門の弟弟子であった石田芳夫に名人戦で挑戦し、4勝3敗で奪取する。翌年から朝日新聞主催となった名人戦での3期在位を含め、1980年に趙治勲に敗れるまで6年連続で七番勝負出場。1982〜84年には趙治勲に3年連続挑戦、1984年は3連勝後4連敗を喫する。新旧リーグ在籍24期のうち、12期挑戦者となった。
全日本第一位決定戦の後継棋戦である碁聖戦では、第1期(1976年)は加藤正夫の挑戦を受け敗れるが、1980年から5連覇して名誉碁聖の資格を得、連覇記録は1985年までの6連覇に伸ばした。
名人戦に比べて不思議に本因坊戦には縁が薄いと言われていたが、1988年に武宮正樹本因坊に挑戦、3-4で敗れる。棋聖戦にも2度挑戦したが、1981年は藤沢秀行に0ー4、1990年には小林光一に1ー4で敗れる。
1992年には富士通杯に優勝、1993年には応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦の決勝に進むが徐奉洙に2勝3敗で敗れ準優勝、1994年にはテレビ囲碁アジア選手権戦で優勝。日中スーパー囲碁では、第2、7、10、11回に日本の主将を務め、第10回には5人抜きした常昊を止めて自らも4人抜きを果たすが馬暁春に敗れ、第11回には常昊に敗れ6人抜きを許した。
通算タイトル獲得数は48。通算成績は1188勝732敗5ジゴ1無勝負(2010年4月時点)。門下に西村慶二八段。木谷門下の塾頭格として、後輩の指導などでも評価が高い。
2007年6月から日本棋院副理事長を務めたのち、2008年12月に棋士としては6人目となる理事長に就任した。2010年3月に全日本囲碁連合が設立されると会長となる。2010年アジア競技大会囲碁チームの監督も務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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