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大村はま : ミニ英和和英辞書
大村はま[おおむら はま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むら]
 【名詞】 1. village 

大村はま : ウィキペディア日本語版
大村はま[おおむら はま]
大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)、(英文 Ohmura Hama〔苅谷〕)1906年6月2日 - 2005年4月17日)は、日本国語教育研究家である。西洋中世哲学、ドイツ哲学、キリスト教神学の研究者大村晴雄は実弟。
== 生涯 ==
横浜市出身。父親は大村益荒、北海道の尋常師範学校の教師を経て、ミッションスクールである共立女学校(現横浜共立学園)の幹事から教頭になっていた。〔苅谷〕母親はくらといい、北星女学校を卒業していた。両者クリスチャンという関係で結婚した。1913年にはまは、横浜市尋常高等元街小学校に入学した。母くらは、後に「婦人の友」となる「家庭の友」の創刊号からの読者であり、〔苅谷〕父は潔癖さが強く、不器用であり、うそが嫌いであったという。〔苅谷〕1919年小学校を卒業後、はまは、共立女学校に進学した。しかしその学校を出ても大学進学ができないことがわかり、14歳の9月に捜真女学校に転入した。バプテスト派の女学校である。その学校の川島治子の国語教育に影響を受けた。〔苅谷〕1924年、はまは1年間、パーマー英語教授研究所で働いた。〔苅谷昭和3年に最初に授与された免状には英語とある。〕。1925年、はまは東京女子大学に入学した。学校では、読書家ではあったが、比較的目立たない人の話の聞き手になることが多かった。〔苅谷
1928年、東京女子大学を卒業後に公立高校教員(地方公務員)となり同年から1937年は長野県立諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)を皮切りに国語の教鞭をとる。1938年から1947年は、東京府立第8高等女学校。〔苅谷〕1947年から48年は東京都江東区立深川第一中学校。〔苅谷〕1949年から51年は東京都目黒区立第8中学校、〔苅谷〕1951年から56年まで、東京都中央区立紅葉川中学校、〔苅谷〕1956年から60年までは、東京都中央区立文海中学校、〔苅谷〕1960年から80年までは、東京都大田区立石川台中学校、〔苅谷〕1980年3月31日にひっそりと退職した。52年間、一教師であった。〔苅谷〕戦後は東京都内の中学校で教鞭を取り、新聞雑誌の記事を元にした授業や生徒各人の実力と課題に応じたオーダーメイド式の教育方針「大村単元学習法」を確立した。それに参加した生徒は延べ5000人以上といわれている。
半世紀以上の教鞭実績を称え、1963年には広島大学主催「ペスタロッチー賞(現・ペスタロッチー教育賞の母体)」、1978年には日本教育連合会賞をそれぞれ受賞。また定年退職後も「大村はま 国語教室の会」を結成し、日本の国語教育の向上に勤めた。勲五等瑞宝章を受章。
鳴門教育大学図書館には、「大村はま文庫」として、文献や学習の記録などが収蔵されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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