翻訳と辞書
Words near each other
・ 大戸瀬アナログ中継局
・ 大戸瀬デジタル中継局
・ 大戸瀬崎
・ 大戸瀬村
・ 大戸瀬駅
・ 大戸神社
・ 大戸緑地
・ 大戸荘
・ 大戸辺尊
・ 大戸道尊
大戸阿久里
・ 大戸雄記
・ 大戸駅
・ 大戸﨑
・ 大戸﨑祐慈朗
・ 大房
・ 大房岬
・ 大房岬自然公園
・ 大房身駅
・ 大房養次郎


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

大戸阿久里 : ミニ英和和英辞書
大戸阿久里[おおと あぐり]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 

大戸阿久里 : ウィキペディア日本語版
大戸阿久里[おおと あぐり]
大戸 阿久里(おおと あぐり、慶安元年(1648年) - ?)は、下総国関宿藩主・牧野成貞正室。5代将軍・徳川綱吉側室であったという説もある。
== 生涯 ==
牧野家の譜代の家臣である大戸玄蕃吉勝の娘として生まれる。その後、徳川綱吉の母・桂昌院の侍女となる。桂昌院の指示で成貞と結婚した。
成貞との間には、寛文7年(1667年)に長女・松子(永井貞清正室)、寛文9年(1669年)に次女・牧野成時正室)、寛文11年(1671年)に三女・亀を出産した。
その後、綱吉に見初められ、江戸城大奥へ入ったという説がある。阿久里を奪った埋め合わせとして、延宝8年(1680年)に綱吉は成貞を下総国関宿藩主に任命し、成貞は15,000石の大名に出世した。さらに、成貞は老中と並ぶ扱いを受けるようになり、元禄元年(1688年)には73,000石に加増されている。
しかし、阿久里だけでは満足しなかった綱吉は、成貞の娘・安にも手を出し、大奥入りしたという説がある。ただ、綱吉の側室として記録のある新助の方(『幕府祚胤伝』記載では新典侍。院号は清心院)を阿久里に比定する説〔雲村俊慥『大奥の美女は踊る』71頁〕があるものの、『幕府祚胤伝』によれば清心院は出自が「豊岡有尚の娘、日野弘資の養女」となっており、また「元文4年(1739年)卒、享年73」(=寛文7年(1667年)生まれ)であるため、阿久里の生年・出自と食い違っており、安の名前もどこにも記録されていない。阿久里と安が大奥へ入ったという話は後世の創作という説もある。
墓所は東京都墨田区にある弥勒寺

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大戸阿久里」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.