翻訳と辞書
Words near each other
・ 大原インターチェンジ
・ 大原インターチェンジ (山口県)
・ 大原インターチェンジ (岡山県)
・ 大原サッカー場
・ 大原デジタルアーカイブス
・ 大原一三
・ 大原三千院
・ 大原中学校
・ 大原久友
・ 大原亨
大原亮治
・ 大原今城
・ 大原佐予子
・ 大原俊弘
・ 大原信号場
・ 大原健士郎
・ 大原優乃
・ 大原光憲
・ 大原八幡宮
・ 大原八幡神社


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

大原亮治 : ミニ英和和英辞書
大原亮治[おおはら りょうじ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

大原亮治 : ウィキペディア日本語版
大原亮治[おおはら りょうじ]

大原 亮治(おおはら りょうじ、1921年大正10年)2月25日 - )は、大日本帝国海軍軍人戦闘機操縦士。最終階級海軍飛行兵曹長
== 経歴 ==
1921年(大正10年)2月25日、宮城県の農家に生まれた。昭和15年6月、一般航空兵として横須賀海兵団に入団する。海兵団から千歳航空隊を経て、1941年(昭和16年)5月、第4期丙種飛行予科練習生となり、土浦海軍航空隊に入隊。1942年(昭和17年)7月に飛練を卒業し、戦闘機操縦者として大分航空隊へ入隊し、ここで九〇練戦、九五戦での訓練を終えた後、その年の10月にはブイン基地の第六海軍航空隊に交代要員として着任した。
1942年(昭和17年)10月19日に初空戦を経験すると、同月23日にはガダルカナル上空でVMF-12のF4F10機と戦い、初撃墜を記録している。
大原は1943年(昭和18年)11月に横空へ着任するまで204空(六空から改称)で奮戦し、本土へ帰還した。
以降、本土防空戦に従事していたが、1945年(昭和20年)4月9日、原因不明の高熱を押してB-29迎撃戦の最中、後方からP-51に撃たれ被弾、陸軍の相模原飛行場に胴体着陸した後、軍医から腸チフスの診断を受け、そのまま約80日間の入院を余儀なくされた。退院後の1945年(昭和20年)8月17日、本土偵察に飛来したB-32に対する迎撃戦に、零戦に搭乗して参加し、これが大戦最後の出撃となった。
戦後は、1953年(昭和28年)に海上警備隊(現在の海上自衛隊)に入隊し、1971年(昭和46年)に三佐で退官。その後は民間航空のパイロット養成にあたった。
戦後本人への取材無く、ヘンリー・サカイダが著した戦記本には、「ラバウルの殺し屋」と書かれ憤慨した。その後の改訂版では「ラバウルの撃墜王」に改められた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大原亮治」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.