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大倉喜七郎賞 : ミニ英和和英辞書
大倉喜七郎賞[しょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [しち]
  1. (num) seven 
: [しょう]
  1. (n,n-suf) prize 2. award 

大倉喜七郎賞 ( リダイレクト:日本棋院#顕彰 ) : ウィキペディア日本語版
日本棋院[にほんきいん]

公益財団法人日本棋院(こうえきざいだんほうじんにほんきいん)は、東京都千代田区五番町市ヶ谷駅前)に本部をおく、囲碁棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人
約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。
== 歴史 ==
明治維新以降、幕府というパトロンを失った棋士たちは離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢であった。1872年(明治5年)に村瀬秀甫により設立された史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社と、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家とが、対立、並存する時代が長年続いていた。1923年(大正12年)の大正関東地震関東大震災)を機に棋士たちの大同団結の機運が高まり、翌1924年(大正13年)、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。
設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築く。
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)の東京大空襲で赤坂区(現港区)赤坂溜池にあった棋院本部が焼失するなど大きな被害を受けた。戦後すぐに瀬越憲作岩本薫らが中心になって再建を目指し、大手合も料亭や後援者の邸宅などを借りて再開された。1948年(昭和23年)には港区高輪に新しい棋院会館が設立され、順調に日本棋院の再建は成されていった。
1947年(昭和22年)には坂田栄男梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げするが、1949年(昭和24年)復帰する。
さらに1950年(昭和25年)、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立された。橋本は翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1-3からの大逆転で降してタイトルを防衛、関西棋院の独立を守った。その後いく度か再統合の話も出ているが、段位の調整や(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり実現していない。この日本国内の棋院の分裂構造は日本将棋連盟が関東・関西・中部と一枚岩なのと比べきわめて対照的である。
1971年(昭和46年)には千代田区五番町の市ヶ谷駅前に現在も使用されている新会館が建設された。その後紆余曲折はあったものの、現在でも、世界囲碁界の中でも重要な地位を占める。ただし1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(2007年(平成19年)の囲碁愛好者は約240万人。『レジャー白書』による)、国際棋戦における日本棋士の不振など、問題山積が現状である。
2011年(平成23年)に公益財団法人へ移行した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日本棋院」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nihon Ki-in 」があります。




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