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大ノ海久光 : ミニ英和和英辞書
大ノ海久光[おおのうみ ひさみつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

大ノ海久光 : ウィキペディア日本語版
大ノ海久光[おおのうみ ひさみつ]
大ノ海 久光(おおのうみ ひさみつ、1916年3月20日 - 1981年9月20日 )は、元大相撲力士、元花籠親方。最高位は前頭3枚目。秋田県南秋田郡井川町生まれ。本名は中島 久光(旧姓工藤)。現役時代の体格は176cm、99kg。得意手は左四つ、寄り。
== 人物 ==
兵役を経て、現役横綱で二枚鑑札玉錦二所ノ関部屋に入門し、若ノ花四股名1937年1月場所で初土俵を踏む。20歳という遅いスタートであった。幕下時代に大ノ海と改名、1943年1月場所新十両1944年11月場所新入幕。軽量であったが力は強かった。しかし、決め技がなく相撲の遅いタイプだった。稽古が嫌いでカレーを食べることだけが楽しみという無欲な性格も出世を妨げたと言われている。
目立った活躍の少なかった現役時代とは対照的に、弟子育成に手腕を発揮し大きな功績を残す。現役中の1948年に「大ノ海道場」を設立し内弟子を育成。1952年5月場所の引退後は芝田山部屋を興し、のちに名跡を替え花籠部屋に変更。若い頃の四股名を譲った若乃花を筆頭に2横綱1大関を含め、三役以上を8人など関取(十両以上)を27人育てた。協会理事としても春日野理事長の下で事業部長を務めるなど長きに渡って活躍した。1981年、停年(定年)の10日前に弟子で娘婿(後に解消)の輪島に部屋を譲るため廃業(退職)した。後見として輪島を支える間も僅か、膵臓癌により同年9月に逝去。享年65。従五位勲四等瑞宝章を追贈される。
1951年アメリカ巡業中にプロレスから勧誘されたことも知られているが、自身の四股名を譲った弟子大ノ海敬士が引退後にプロレスラーになったことも因縁めいている。息子も大ノ海の四股名で幕下力士だった。アメリカ巡業の影響なのか戦後から洋食に傾倒し、和食は一切食べなくなったという。
ちなみに若乃花の四股名は、弟子の初代若乃花幹士(花田勝治)を初代、その弟子の2代若乃花幹士(元若三杉壽人、下山勝則)を二代目、初代の甥若乃花勝(花田勝)を三代目として数えることが一般的であるが、初代若乃花幹士は師匠である大ノ海に敬意を表し、「私の師匠(大ノ海)が初代若ノ花であり、自分は二代目である」と語っていた。
若乃花や輪島らの横綱を陰で支えたおかみさんの中島トミは、貧乏部屋から辛酸を舐めながら苦労を重ねて隆盛させた花籠部屋が輪島の不祥事で消滅したことを苦に、1986年5月23日の夕刻、老後のために購入した八王子市横川町の別荘の物置で、鴨居に電気コードをかけ縊死自殺を遂げた。享年65。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大ノ海久光」の詳細全文を読む




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