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土浦市立土浦幼稚園 : ミニ英和和英辞書
土浦市立土浦幼稚園[つちうらしりつ つちうらようちえん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 
: [うら]
 【名詞】 1. inlet 
: [し]
  1. (n-suf) city 
市立 : [しりつ]
  1. (n,adj-no) municipal 2. city 
幼稚 : [ようち]
  1. (adj-na,n) infancy 2. childish 3. infantile 
幼稚園 : [ようちえん]
 【名詞】 1. kindergarten 
: [その]
  1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation 

土浦市立土浦幼稚園 : ウィキペディア日本語版
土浦市立土浦幼稚園[つちうらしりつ つちうらようちえん]

土浦市立土浦幼稚園(つちうらしりつ つちうらようちえん、)は、茨城県土浦市にある、公立幼稚園。略称は、土幼(どよう)。
茨城県最古の幼稚園であり、明治10年代(1877年 - 1886年)に創立した公立幼稚園で現存する数少ない幼稚園の1つである〔仁平(2012):18ページ〕。フリードリヒ・フレーベル教育法・保育法を援用した指導を展開してきた〔。
== 沿革 ==

=== 明治時代 ===
1876年(明治9年)、日本で初めての幼稚園が東京女子師範学校に開園した(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)が、幼稚園教育への一般人の理解の不足や多額の資金調達ができないため、1881年(明治14年)になっても日本全国でまだ7園しかなかった〔土浦市史編さん委員会 編(1985):808ページ〕。
1885年(明治18年)10月17日、土浦西小学校(現在の土浦市立土浦小学校)の附属幼稚園として土浦幼稚園が開園した〔。開園式には約90人が出席し、唱歌や奏楽で華やかに行われた〔土浦市立博物館 編(1998):55ページ〕。なお、正式な開園前の9月15日に仮開園を行い、6人が入園している〔土浦市立博物館 編(1998):24ページ〕。開園の背景には、当時学齢に満たない幼児小学校入学させる風潮をいさめるために文部省が幼稚園設置基準を1884年(明治17年)に緩和したことと、土浦西小学校の校長が幼稚園教育の重要性を認識していたことにある〔。土浦西小校長の坂本祐一郎は東京女子師範学校附属幼稚園を視察し、土浦町戸長や学務委員と協議を重ね、茨城県令人見寧から認可を得て開園に至った〔土浦市立博物館 編(1998):20ページ〕。開園資金は県からの補助金50円と町民有志からの寄付200円余によって賄われた〔〔土浦市立博物館 編(2010):10ページ〕。開園時、日本全国で幼稚園は30園存在したが、茨城県では本園が初めての開園となった〔。その30園はほとんどが東京府大阪府に集中し、『教育時論』第20号では、
と記し、土浦の教育熱心さと開園の努力を讃えている〔土浦市立博物館 編(1998):53 - 54ページ〕。開園に当たってはまず恩物一式を買い求めたようである〔土浦市立博物館 編(1998):54ページ〕。その一方で『文部省年報』では、
と記している〔湯川(2001):300ページ〕。
1886年(明治19年)時点で保育料は6、園児数は28人であった〔土浦市立博物館 編(1998):25ページ〕。保母幼稚園教員)は小学校助手との兼務で塚本こうが主に務め、塚本が病気出張で幼稚園に出勤できない日は休園になっていた〔土浦市立博物館 編(1998):24 - 25ページ〕。弱冠20歳であった塚本は豊田芙雄から幼児教育を学び、茨城県第1号の保母となった〔土浦市立博物館 編(1998):26ページ〕。ほかに東京女子師範学校の卒業生2名が保母をするとともに、アドバイザーとして幼稚園設立に尽力した〔。幼稚園教育は小学校に準じて行われ、始業は午前9時、終業は午後3時頃で、小学校との合同行事も多く、夏休み冬休みも設けられたことから、都市部の幼稚園に比べて「庶民的」であった〔土浦市立博物館 編(1998):56ページ〕。とは言え、通園していたのは商人医師官僚など有力者の子どもがほとんどで、文部省が「子どもの養育の余裕がないから子どもを預かるため」に幼稚園を設立することを奨励したにもかかわらず、実際には立身出世のための早期教育を目的として入園させる傾向が強かった〔。
1887年(明治20年)には園児が60人に増加、一室の増築が行われた〔土浦市立博物館 編(1998):28ページ〕。この年、土浦尋常小学校附属幼稚園に改称する〔土浦市立博物館 編(2010):115ページ〕。当時の記録によれば、入園料は各家庭財産に応じて1等級から4等級まで分けられていた〔。また、幼稚園の入退園記録も一括で保管されており、貴重な資料となっている〔。当時、教具として用いられた恩物などの備品も一部残っている〔土浦市立博物館 編(1998):30 - 34ページ〕。教えられた科目修身話や積み木書き方など26科目あった〔湯川(2001):348 - 349ページ間の表10-3より〕。その後、全国的には幼稚園の存続の是非が問われるようになったが、土浦ではそうした動きは見られなかった〔土浦市立博物館 編(2010):7ページ〕。是澤博昭は、土浦の人々が寺子屋感覚で幼稚園を捉えていたと考えられることと、当時の土浦が舟運を中心に栄えていて経済的にゆとりがあったこと、江戸東京生活文化を受容しようとした強い志向が窺えることが背景にあると分析している〔土浦市立博物館 編(2010):14ページ〕。1911年(明治44年)4月、小学校校舎の新築に伴い、園舎を建設する〔土浦市立博物館 編(2010):116ページ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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