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唐生智 : ミニ英和和英辞書
唐生智[とう せいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とう]
 【名詞】 1. T'ang-Dynasty (China 618-907) 
: [せい, なま]
  1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed 

唐生智 : ウィキペディア日本語版
唐生智[とう せいち]

唐 生智(とう せいち、1889年―1970年4月6日)は中華民国軍人および中華人民共和国の軍人・政治家字(あざな)は孟瀟。湖南東安の芦洪市生まれ。
唐生智は中華民国の建国初期から日中戦争が始まるまで、異なるいくつかの重要な職務を担当し、上将の称号を授かった。国共内戦末期には湖南で中国共産党を支持し、それ以後は湖南の軍政機構で湖南省副省長などを務めた。唐生智の四番目の弟唐生明国民革命軍の中将である。
1937年12月における南京防衛戦の総指揮官であり、中華人民共和国成立以降も大陸に残った。1949年、湖南省知事に命じられ、中国国民党革命委員会の委員、全国人民代表大会の常務委員を歴任した。
== 人物略歴 ==
唐生智は1914年に保定陸軍士官学校を卒業後、辛亥革命護国戦争護法運動北伐戦争など中華民国建国初期の重要な戦争に参加した。
北洋軍閥の次期には、唐生智は湖南軍閥に属しており、北洋軍閥が湖南から撤退した後、唐生智は湖南省の第四師団長となった。当時の湖南省省長趙恒惕と対立し、クーデターにより趙恒惕を長沙から追い出した後、自ら省長の職に就き、反対勢力の駆逐を図った。唐生智の敵は、武漢で反撃準備をしていた呉佩孚に救助を求めた。唐生智は敗戦して長沙から退き、北閥軍に参加することを決定した。1926年6月2日に彼は正式に部下を率いて国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長を任命され、6月に再び長沙を占領した後、湖南省の主席となった。1927年には武漢国民党の中央政治委員会委員、軍事委員会7人主席団のメンバー、武漢国民政府委員、第4集団軍総司令官などの職を兼務した。
北伐戦争に勝利した後、唐生智は蒋介石新広西派による武漢政府に対する反対勢力の軍事的主力となった。1927年11月12日の寧漢戦争で彼は李宗仁に負け、日本に亡命した。1929年4月に唐生智は蒋介石の元に降り、国民政府軍事参議院院長、第五路線軍の総指揮官として、蒋介石と桂系軍閥との戦争に参加した。10月に蒋馮戦争に参加したが、12月に再び旗幟を翻して反蒋の石友三と連合し、護党救国軍第四路総指揮官を率いた。敗戦した後、1930年に再び下野した。
1931年、広州国民政府と軍事委員会の常務委員となった。満州事変の後、再び南京政府に帰り、南京国民政府軍事参議院院長に復任した。1935年4月に上将の位を授けられた。1937年11月に日本軍が南京に進攻した際、彼は死守を強く主張し、自ら志願して首都警備司令官の長官となり、中国側の南京防衛戦の最高指揮官となった。彼は首都と共に存亡を共にすることを公言し、南京から長江以北に通じる道路を封鎖するよう命令を下し、渡し船を破壊して市民の多くが避難できないようにした。
陥落当時の南京防衛軍司令部の状況については、笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」に詳しい。それによれば、唐生智司令官は、蒋介石の撤退命令を受け、最高幕僚・指揮官会議において、死守を断念し、12月12日午後5時半頃までに撤退命令を出していた。しかし、当時、敗戦の混乱の中、この撤退命令は末端まで行き届かず、持ち場を固守せよとする前命令を信じた部隊と撤退をしようとする部隊の間に一部同士討ちを行うような混乱が生じたり、独自行動を採った部隊もあった〔笠原十九司「南京攻防戦と中国軍」『南京大虐殺の研究』晩聲社、p.214〕。いっぽう、唐は12月12日20時に部下を見捨てて南京から逃亡したとする見解もある〔東中野修道・藤岡信勝『"ザ・レイプ・オブ・南京"の研究』(詳伝社)pp.14-15〕。翌日南京は陥落し、翌年正月には南京自治委員会が発足した。逃亡後の唐生智は湖南に閑居し、仏教学を研究していたといわれる。
1948年11月に南京・上海に赴き、蒋介石に中国共産党と停戦する和議を提案し、1949年には湖南で「平和自救」運動を組織し、「湖南人民自救委員会」の主任委員に就き、率先して湖南の平和解放の支持を訴えた。
中華人民共和国が建国された後、湖南省人民政府副主席、副省長、中南軍政委員会委員、国防委員会委員など、湖南省と中南軍区における各種の職務を担当した。また、中国国民党革命委員会の中央常務委員、全国人民代表大会の常務委員会委員、全国人民政治協商会議の常務委員会の委員などの職務を兼任した。
1961年11月に直腸癌で入院した。12月に見舞いに来た陳毅は、「孟瀟先生、あなたは友人として余りある人だ。国民党の一級上将の中であなただけが、我々紅軍、解放軍を攻撃しなかった」と称えたと言う。1968年に林彪、江青による文化大革命の反革命集団は数回にわたって湖南に人を送り、唐に対して様々な手を使って、賀龍が「人民の敵」であると声明させようとしたが、頑強な抵抗に遭った。彼らは唐が言う通りにしないのを見て腹を立て、一人がピストルを腰から取り出すとテーブルの上に叩きつけ、「言うのか言わないのか!言わないならお前を撃ち殺すぞ!」と叫んだが、唐はその一言を聞いて激怒し、衣服をはだけて胸を叩き、「小僧!こっちに来い!俺は各地を歴戦して銃弾の雨を歩いてきたが、死を恐れたことはないぞ!」と言ったと言う。唐の気迫の前に、彼らは頭を下げ、あわてて退却するしかなかった。しかし、文革による心労のため、唐の心身は弱っていった。
1970年4月6日、持病の発作により、長沙で病死した。82歳だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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