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吉野源三郎 : ミニ英和和英辞書
吉野源三郎[よしの げんざぶろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [みなもと, げん]
 【名詞】 1. source 2. origin 
: [み]
  1. (num) three 

吉野源三郎 : ウィキペディア日本語版
吉野源三郎[よしの げんざぶろう]

吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者児童文学者・評論家翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
== 経歴 ==
1899年(明治32年)、東京府(現・東京都)出身。父は株式取引所仲買人であった。
1912年(明治45年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1917年(大正6年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1918年(大正7年)、旧制第一高等学校に入学。1922年(大正11年)、2留のすえ第一高等学校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。思索の中で哲学への思いが高じて文学部哲学科に転部した。
1925年(大正14年)、26歳で東京帝国大学文学部哲学科を卒業。思い立って陸軍に入隊する。除隊後の1927年(昭和2年)、東京大学図書館に就職。このころから政治に関心を持ち、社会主義系の団体の事務所に出入りするようになる。1931年(昭和6年)に治安維持法事件で逮捕される。このとき抱いた軍国主義への不信感が、後年の反戦活動、理想主義的な思想体系を形作ったと考えられる。
1935年(昭和10年)、山本有三の「日本少国民文庫」編集主任に就任。1937年(昭和12年)には明治大学講師に就任。この年、『君たちはどう生きるか』を刊行し、岩波書店に入社〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus〕。1938年(昭和13年)、岩波新書を創刊〔。1939年(昭和14年)、明治大学教授に就任。戦時中も一貫して独自のヒューマニズム論を展開した。
1946年(昭和21年)、雑誌『世界』を創刊し、初代編集長に就任〔。いわゆる「戦後民主主義」の立場から、反戦・平和の姿勢で論陣を張った。1950年(昭和25年)4月15日平和問題談話会を結成し、1951年(昭和26年)の対日講和条約に関しては、米国を含む52ヶ国との単独講和ではなく、ソ連中国も含めた全面講和論を主張した〔〔Yahoo!百科事典〕。1959年(昭和34年)、「安保批判の会」結成に参加し、1960年(昭和35年)の安保闘争で活躍。この間、1949年(昭和24年)に岩波書店取締役、翌年に岩波書店常務取締役、1965年(昭和40年)に岩波書店編集顧問に就任した。
1975年(昭和50年)に広島で開催された「被爆30年広島国際フォーラム」の世話人を努めた。
1981年(昭和56年)、肺気腫症のため、82歳で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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