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吉田東伍 : ミニ英和和英辞書
吉田東伍[よしだ とうご]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [ご]
  1. (n,vs) five (used in legal documents) 2. five-man squad 3. file 4. line 5. rank with 6. associate with

吉田東伍 : ウィキペディア日本語版
吉田東伍[よしだ とうご]
吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日1864年5月19日) - 大正7年(1918年1月22日)は日本歴史学者地理学者(歴史地理学)。
新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。
== 概説 ==
元治元(1864)年4月14日(4月10日との説もある〔千田稔 2003年 16ページ〕)、越後国蒲原郡保田村(現:阿賀野市安田村)の豪農〔田畑350町歩ほど、山林370町歩を所有(千田稔 2003年 20ページ)〕旗野家の子(三男)としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、明治17(1884)年12月から名乗った〔千田稔 2003年 17ページ〕。明治8(1875)年、11歳の時から新潟学校(後の新潟英語学校)中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で小学校教員となる〔1883年、20歳の時に新潟県教員検定に合格し、中蒲原郡大鹿小学校の教員となる(岡田俊裕『日本地理学人物事典』原書房 2011年 136ページ)〕。1884(明治17)年、中蒲原大鹿新田(新潟市秋葉区)の吉田家の養子となり結婚する。1885(明治18)年、1年志願兵として仙台兵学校に入営する。休日には仙台師範学校の図書館(旧仙台藩の図書を収蔵)に通う。翌年、帰郷する。1887(明治20)年、24歳の時、小学校正教員の検定に合格し、北蒲原郡水原小学校訓導となった。この頃、歴史・地理・天文のほか考古学・人類学に関心をもつ。1889年(明治22年)水原小学校を辞職。〔岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近世編 1 ] 原書房 2011年 136ページ〕。
1890年(明治23年)、27歳での結婚後に単身北海道に渡り、そこから『史学雑誌』に寄稿した「古代半島興廃概考」が学者の注意を引き、落後生という筆名で続々史論を発表し注目された。特に『史海』への投書論考が主筆田口卯吉らの注目をひき、学界への登竜門となった。1891年(明治24年)郷土に帰り、親戚の市島謙吉を頼って上京し、市島が主筆を務める読売新聞社に入社し、「徳川政教考」を『読売新聞』に連載。また、2年足らずで膨大な『日韓古史断』(1893年、30歳)を書き上げ、翌年『徳川政教考』を出版し、歴史家としての地位を固めた。
1895年、日清戦争に記者として従軍した頃から、1893年に官撰日本地誌の編纂事業が中止されており、その事業を独力で継ごうという意思の表れでもあり〔岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近世編 1 ] 原書房 2011年 137ページ〕、また、日本の地名の変遷を記した研究がないことに気付き、13年かかって『大日本地名辞書』11冊を完成した。原稿の厚さ5mに及ぶ質量とも古今未曾有の大地誌で、今日でも刊行されている。
歴史地理学のほか日本音楽史の造詣も深く、とくに能楽研究に意を注ぎ、『世子六十以後申楽談儀』(『申楽談儀』)を校訂、これが世阿弥伝書の発見につながる契機となった。その後、吉田が『花伝書』と命名した『風姿花伝』をはじめ,当時発見された世阿弥の著書16部を収めた『世阿弥十六部集』を校注し、従来の観阿弥・世阿弥像を一新させ,近代能楽研究の出発点となった。
晩年は宴曲(早歌(そうが))研究に努め,東儀鉄笛(とうぎてつてき)の協力で宴曲再興を試み,私財を投じて『宴曲全集』を公刊して研究の基礎を築いた。
他にも、社会経済史の分野では『庄園制度之大要』が、近代史の分野では『維新史八講』があり、現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史『倒叙日本史』(全12巻)もある。
東京専門学校(早稲田大学の前身)文学部史学科講師となり、以後、国史、日本地誌、明治史、日本地理を担当、のちに教授となり、さらに維持員、理事に就任したが、1918年(大正7年)尿毒症のため急死した。
次男の吉田千秋は琵琶湖周航の歌の原曲の作曲者。三男の吉田冬蔵は英文学者で新潟大学文学部教授を務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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