翻訳と辞書
Words near each other
・ 北原弘一
・ 北原志帆
・ 北原志穂
・ 北原怜子
・ 北原愛子
・ 北原憲彦
・ 北原拓
・ 北原敦
・ 北原文枝
・ 北原文野
北原昇
・ 北原明日香
・ 北原星望
・ 北原智
・ 北原梨奈
・ 北原次郎
・ 北原武夫
・ 北原毅之
・ 北原氏
・ 北原沙弥香


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

北原昇 : ミニ英和和英辞書
北原昇[きたはら のぼる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

北原昇 : ウィキペディア日本語版
北原昇[きたはら のぼる]

北原 昇(きたはら のぼる、1917年〕 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手遊撃手〕。
== 来歴・人物 ==
松本商業(現・松商学園高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(春1回〔1933年〕、夏1回〔1935年〕)。1933年春の大会では、遊撃手として出場し、優秀選手賞を獲得〔。立教大学進学後も強打者として鳴らし、山本一人(後に南海でチームメイトになる)のライバルとして有名だった。立大卒業後は、ノンプロの台湾実業団を経て、1941年南海軍に入団。
南海入団後も打棒は衰えず、長打力のある打者として活躍。入団年の1941年こそ国久松一猪子利男の控えに甘んじたが、シーズン終盤の10月から14試合に出場し、打率.333をマーク。戦争による用具の悪化により、この年のリーグ全体の打率が.201、特に南海は貧打線として知られ
チーム打率が.195しかなかったことを考えると驚異的な成績だった事が分かる。翌1942年に国久が左翼手、猪子が遊撃手に回った事により、二塁手のレギュラーを獲得。4番を打っていた岩本義行の前を打つ3番打者として、勝負強い打撃でチームに貢献した。特に選球眼に優れており、四球三振より圧倒的に多かった。
しかし、実は南海入団前に結核を患っていた。その為、マスクを付けて球場入りする事もあったという(ちなみに、チームメイトのエース・神田武夫にも同様のエピソードがある)。1942年8月5日朝日戦を最後にプロ野球出場は途絶え、その後応召。戦地で持病の結核を悪化させ、戦病死した(正確な没年月日、死没場所は不明)。20代中盤の短い生涯だった。
東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北原昇」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.